魔鞭(Magic Whip)

 辛ければ冷たい水を飲めばいい。暑ければエアコンをつければいい。頭痛がするなら薬を飲め。手足が取れたらまたくっつけておけばいい。僕らの社会の進歩は本当に偉大で、何か異常が起きたらそれに対処する何かが必ずと言っていいほど存在している。このことによって日常を何不自由なく行える。例えば、残業が大変だからエナジードリンクを飲んで頑張ろう、とかね。あ、そういえばそれの飲みすぎで死んじゃった人がいるな...。否、我らの社会の素晴らしきかな。つらくても薬を飲めば大丈夫、だから一生懸命働きなさいね。ん?風邪だから休みたい?若い奴はそうやってすぐ休みたがる、俺が若い頃は高熱が出たって御国のために働いたんだ、休むんだったら辞めていいぞ、代わりは幾らでも居るからな。さ、これよろしく、俺は帰るぞ。

 ...「飴と鞭」という言葉がある。支配にとって何より欠かせないことだ。ジョージ・オーウェルの『1984年』の中にも、「二分間憎悪」というイベントがある。大勢が集められた空間で、スクリーンに敵国の支配者の顔が写される。みんなはそのスクリーンに向かって憎悪をぶつける。そして、愛国心を一層強く抱き、そしてそれを全員が共有する。支配とはこうやって完了する。ーさあて、僕らの国はどうだろうか。

 「桃太郎」というおとぎ話を知らない人は多くない。おばあさんが川で洗濯をしていると大きな桃が流れてきて...って、説明はしなくても大丈夫か。今日、大学の授業で読んだ本の中に、桃太郎のことが書いてあった。なぜ、桃太郎は国民的なお話になったのだろう。桃太郎は、鬼を倒しに行く。この「鬼」は、戦時中の日本人にとって何だったのだろう。さらに、日本の花と言えば「桜」だが、桜に対するイメージである「美しく、そしてさっと散っていく」が広まったのは、戦時中のことだ。なぜだろう。どうして、呆気なく散っていくことに美しさを見出し、それが日本中に広まったのか。そしてその美しさのせいで、どれだけの人が命を落としていったのか。

 人々の意識なんて簡単に操れる。仮想敵を作り、それをみんなで倒そうという結束力。国を愛し、国のために生きるという同調圧力。隣人が隣人を監視しあう。そしてときどき飴を与え、すべて忘れさせる。これが日常なのだと思わせる。いや、これは時代遅れの思想だろうか。日本は正常だ、マトモな国だ。地下鉄で殺人が起こったが、あいつは「オタク」だ、「オタク」は我々とは違う。気をつけろ。日本を傷つける者は国へ帰ればいい。そうか、これこそ日本。「俺らの頃はもっと大変だった、それくらいで音を上げるんじゃない」「貧乏?お前らの責任だろ」そうやってみんながドミノ倒しにしんどくなる社会。それでも政治家はお昼寝をしている。この国に生まれてよかったね。おめでとう。