美しさと怠惰

 そろそろちゃんとしたいのだけど、というか年が明けたり春が近づいたりするたびにそう思うのだけど、うまくはいかない。ちょっと進んだと思ったら再びふりだしに戻る。夜はうまく眠れずに、朝はすんなり起きることができない。今ぐらいのとても寒い日なんか、昼までだらだら時間を無駄にしてしまって、一日があっという間に過ぎていく。そしてまたゾンビみたいな夜へとつづく。

 みんなの視線が注がれる空間では、ちょっと見栄張ろうとまともなふりをしている。見た目だけそれらしくて、その中身は大したものじゃない。盛り付けだけキレイにみえる料理。耳馴染みのいい平板な音楽。ときどき勘違いして自分もちゃんとやれているって思いがちだけど、真夜中になればそれがふっと解けて空洞が透けて見える。逃避していた現実が鎌をもって追いかけてくる。

 言い訳をしたり誤魔化したりするのはだめだって分かっているけれど、こういうときに聴くモリッシーの歌はとても救いになる。ザ・スミスから彼を知り、好きになって、今ではモリッシーのまっすぐな生き方に魅了されている。あまりにも変化しないが故に音楽雑誌から痛烈に批判されるほどの彼の思想。だけどそれはときにたくましく、華麗に映る。ザ・スミス時代からアセクシャルを主張し、王室や教育、政治などあらゆる権威を嫌い、孤独であり続ける姿は正直まぶしい。どれだけ彼が多くの人から非難されてきたのかは想像できないけれど、今でも元気にパフォーマンスしてくれるのはすごく嬉しい。

 だけど、だ。彼をしっかりと見つめていると、変化を感じることができる。花を愛でる彼も数年後にはボクサーをモチーフに詩を書き、ものすごく禁欲的だったのに最近は恋の喜びに満ちた歌も作ったりしている。相も変わらず嫌なところを抱え、つらい夜もある中で、生きてさえいれば何かしら変わることができるのかなと考える。怠け者の僕でも。雨天が忍び寄ると、罰を受ける孫悟空のように頭が痛くなって無能な僕でも。それはそれとして、何を物差しに「成長」って言うのだろうか。無責任に加速し続ける暴走した社会に適応できるかどうか?社会が提示する「こうあるべき姿」を心から信仰して行動できるかどうか?余裕を失った人たちは自分より下の奴らにいろいろ説教しはじめる。そうやって行き場を失った誰かが、今日もモリッシーの声を聴く。美しいけれど棘もある、バラのような歌。弱いからこそ、たった独りだからこそ受け取れるものがあるはず...。