盲目

 ジョージ・オーウェルの小説に『1984年』という名作がある。いつか読もう読もうと思いながら、大学で出される課題を読んでいたら積みっぱなしになってしまった。夏休みにでも読もうと思う。で、その小説の主人公の仕事は、役人として歴史文書の改ざんをすることだ。国が毎日毎日記録を改ざんしているため、どれが本当でそもそもどれが存在しているのかも分からない。

 オーウェルの作品は「ユートピア小説」の対義語として「ディストピア小説」と呼ばれる。でも、そのディストピアとほとんど変わらない状況に今ある気がする。公文書が改ざんされてもそれが「悪ではない」とされる世の中、それがまかり通る日本という国家にぞっとする。なんだか考えすぎて、「もしかしたら以前にも公文書が差し替えられていたことがあるかもしれない」と思うようになった。もし、自分たちが当たり前だと思っていることが作られたものだとしたら。それはディストピアそのものじゃないか。

 伊藤計劃さんの小説のなかに、「歴史は戦争のためにある」という趣旨のセリフが出てくる。今、この言葉がなんとなくでも分かる。普通の市民が、ちゃんと歴史を批判的に見つめていないと、きっと簡単に歴史は「描かれる」。それはあまりにも誰かの都合のいいように、その人の色に塗られる。

 ジョン・レノンも言ったように、目をつむっていたときの方が生きやすいこともある。でも、最近のあれこれを思うと、目をつむっている暇なんて無いんじゃないかと、なぜかわからないけど考える。ふっと気づかないうちに、僕らの営みは誰かに操られるんじゃないか。僕が怖いのは、「自分の知らぬうちに」、「自分の知らぬ誰かに」変えられてしまうことだ。

 正直、休日はずうっと窓辺で寝転がって過ごしたいけれど、それがなされるのはしっかりと社会を見つめ、権力が肥大化しないか監視していてからだ。ヨーロッパを例に出すのは間違っているかもしれないけど、フランスでテロが起きたとき、彼らはテロリストへの反抗として日常を取り戻すことをまず優先した。「こんなものでは我々の営みは壊れないぞ」と。さらに例を出せば、2006年、ユダヤ人を狙った誘拐事件が続発したとき、3万人ものフランス人が立ち上がって反ユダヤ差別デモを行った。たぶん彼らは、自由に意思を表明する。それがたまたま大勢になっただけで、彼らは簡単に権力に立ち上がる。

 日本の場合、デモが起こったら、「犯罪だ」とか「民主主義に反する」とかいう声が上がる。ヨーロッパだと、あまりにも大勢でデモを行うから警察も手が出ない。しかもその群れの中には議員の姿もあったという。日本はいつから、政治がある種のタブーになったんだろう。僕の営みを作る上で、みんなで権力を見張るということは大事なことのように思うんだけど。