Can't Buy Me Love

 小論文の過去問を何個も解いていたとき、マイケル・サンデルの文章に出会うことがたびたびあった。印象に残っているのは『それをお金で買いますか』だ。例えば、ボランティア。ときどき街で人がゴミを拾ったりほうきで掃いたりしているけど、これに報酬制度を取り入れてみてはどうか。集めたゴミのぶんによって報酬が貰える。これだけ聞くとみんなの意欲が上がりそうだと思うけど、実はこの方がボランティアの結果は下がるのだ。それは、「慈善行為」と「お金」の付き合いが悪いからで、こういうのって今の社会に溢れている現象だと思う。

 メディアに対する「はあ...」というため息もこれが根本だと思う。メディアは(例えば新聞は)お金という価値基準が登場する前からあったものだ。だから、「メディア的な」性質がきちんとある。それは、ただただ真実を追い求めるということ、そして真実を市民に広めること(かな?)。しかしいつの間にかお金と深いつながりを持ってしまって、1890年代にアメリカでイエロージャーナリズムが誕生し始める。イエロージャーナリズムっていうのは、新聞の売れ行きを伸ばすために事実よりも人々の興味を引く内容であることを優先するメディアのことだ。うん、今の日本の新聞やテレビ、ネットニュースなどを見ているとイエロージャーナリズム、センセーショナリズムという言葉を思いつく。

 お金というものが生まれるまえから世界にあったものがお金と絡み合うとき、よからぬ化学反応が生じることがある。政治や教育、そしてメディア。どうしてお金と結びついたら(あんまり)いけないのか。それはきっとお金があらゆるものに尺度を与えてしまうからだと思う。自分の善意や熱意をお金で換算されると、その物差しにいろいろ当てはめてしまう。メディアにしても、情報そのものには値段はつかないはずなのに、お金と結びつくから「より生産性のある情報はどれだ!」となってしまうんじゃないかな。それで結局、「事実の多面性<売れ行き」という構図が出来上がった。

 高校のとき、メディアに関わる仕事をしたいと思っていた。でも最近のあれこれを見ていると「うげえ」って感じ。みんな最初は「真実を報道したい!」「さまざまな観点から事実を見つめなければならない!」と考えていたのかな。内田樹さんの本を読むと、結構騒然とするというか、ぽかんと口と開けてしまうというか。遠い遠い昔、新聞というメディア媒体を作った人は決して儲けようとか思ってなかったはず(だと信じたい)。どうしたらいいんだろうね、失言を承知で書くけど今のメディアが終わるのを、崩壊するときを待っていると言ってもおかしくない。沈みゆくタイタニック号で愛し合うあの二人のような感覚です。