ぼくらの「普通」

 藤子・F・不二雄の短編漫画「気楽に殺ろうよ」をご存じだろうか。ある朝、男は誰かに背中を刺されたような痛みを感じる。医者に行って何もおかしいところはないと診断され、家に帰る。おなかがすいたので妻に「ご飯はまだか!」と聞くと、妻が顔を真っ赤にして「やめてください!」と恥ずかしがる。子供が絵本を読み聞かせてと頼むので「シンデレラ」を開くと、王子様とシンデレラの情事が描かれていた...。背中に痛みを感じてからというもの、世界はどこか妙だ。食欲と性欲の価値観が入れ替わっていたり(外で食事をすることは恥ずかしいことだとされている)、子ども一人を生めばそのぶん一人を殺していいし、月曜が休日に、日曜が平日になっていたりしている。しかし、はじめは驚いてばかりだった男も、じきに慣れ、自分のポストを狙う職場の後輩を殺すことを決意する。その朝、背中の痛みを感じて起きた男は、ナイフを忍ばせて街を歩く。その街では、人々が外で普通に食事をしているのだった...。

 自分たちの「普通」というのは、いったい誰が決めて、誰が認めたものなんだろう。僕らは知らず知らずのうちに、誰かが作った「普通」を物真似している。

 冬服から夏服へ(逆でもいいけど)移行するのって結構人目を意識しませんか?でも誰かが夏服に変わると、それからはあっという間に移行が進む。授業中誰も手を挙げてないと自分も挙げなくていいやと思うけれど、自分以外が挙げてたらやっぱり自分もそうしなきゃと思う。きっと「普通」ってものも、こんな感じで、小さい波が大波になるようにできあがったんじゃないかなあ。

 ある年配の男性が、「自分たちは若い頃こんなに残業してきたのに、今の若い人たちは甘えすぎだ」という趣旨(※あくまで趣旨です)の発言をしていて、将来自分も年老いて、「今の若い奴らは...」なんて文句垂れてるのかなあと想像すると、ちゃんとしなきゃと思わざるをえなかった。何をちゃんとするのかっていうと、自分の「普通」が時代遅れのものじゃないかって疑うこと。これはなんにでも言えることだけど、否定から入るのはあんまりよくないなあと思う。でも、「普通」ってなんだろね。日本だと今の季節、新卒の人たちは就職するのが「普通」だけど、欧米だと別に新卒とか関係ないし。イギリスあたりだと、一年に四週間の有給休暇が義務づけられていたりしてるけど、日本は......。

 周りが勝手に決めつけた「普通」で傷つくのはめんどくさい。だけど、自分の「普通」を無遠慮に誰かに押し付けるのも、しんどいなあと思う。それぞれの「普通」を、あるがままに許容できたらいいのにね。