イコール

 「Detroit: Become Human」というゲームが面白い。舞台は、今から20年後のアメリカ、デトロイト人工知能が高度の進化を遂げ、人間以上の知能を保有し、人の社会に溶け込んだ未来。プレイヤーは、カーラやコナーといったアンドロイドを操作しながら、彼らが直面する現実を体験してゆく。なぜこのゲームが面白いのか、それはプレイヤーが選ぶ選択肢によって多様な物語が進行するからだ。ゲーム実況を見ていても、本当にさまざまで、どのパターンも見ていて興味深い。

 そして、もう一つの理由。アンドロイドの視点から人間社会を見ることで、人間の愚かしさや未完全さをまざまざと目にすることができるのだ。まず、アンドロイドがバスに乗る際には、人間が座る席の後ろに設置されたスペースで立っていなければならない。それから、アンドロイドによって仕事を奪われた人々が「反アンドロイド」を訴えて演説をする。アンドロイドを憎む。しかしながら、「人間たちはもはや人工知能なしには生活がしていけない」という矛盾を抱えている。

 世の中にはたくさんの二項対立が存在する。このゲームの中には「人間>アンドロイド」という図式が出てくるわけだけど、本当にこの図式は正しいのだろうか。そして、現在まだ残っている二項対立は、なぜ成立しているんだろう。

 例えば、学校の先生はやたらと「塾よりも学校の教え方を大切にしなさい」と言う。どうしてなんだろう。学校の先生が必ず分かりやすく教えてくれるわけではないし、学校の教え方よりも簡潔に説明してくれる塾講師の方もいるはずだ。それでも学校の先生は、「学校の教え方>塾の教え方」という二項対立を生徒に押し付ける。しかしよく考えると、この二項対立、つまり学校の先生の主張を成り立たせているものは実は「塾の教え方」であり、この主張を全面的に支配している。

 だから、本当の意味で「A>B」が成り立つものって、無いんじゃないかな。王様の権威を示せているのは奴隷や市民あってこそだし、さっき言った学校の教え方だって、塾の教え方と比較するからやっとすごさを主張できている。だから、二項対立とは?本当の意味での平等とは?と、いろんな疑問符が浮かんでくる。男女や老若、さまざまな差異にはどうしても二項対立が生まれてくる。いずれ来る未来、「人間とアンドロイド」という関係を見つめたとき、平等になれるんだろうかと疑問に思う。

 そもそも、対比の関係を持ち出すこと自体に飽きが来ないと、ぎくしゃくは止まらないような気がしている。なんというか、「普通」の価値観が今とは違うものになって初めて、いろんなことが変わりだすんだろうなあ。それは少し、「神の手」に近いものを感じる。本当の意味で平等になれるまで、もう少し時を待つ必要がありそうだなあ。