ボールを投げる

 父とキャッチボールをしたことがない。いずれすると言われて、結局そのままになってしまった。ドラマでキャッチボールをしているシーンを見ると、ちょっとだけ羨ましくなる(ただボールを投げ合うだけなのにね)。体育の時間に友達としたときは楽しかった。僕は運動音痴だからボールを投げるのがとても下手だけど、ときどき相手のミットにパチンとはまるときがあって嬉しかった。

 飛んできたボールを受けるとき、手がじんわりと痛む。特に冬だと、受けた瞬間に顔を歪めるくらいの痛みを覚える。そして、ボールを投げる時だって同じだ。プロのピッチャーが肩を壊して休養や手術を受けた、というニュースが流れますよね。一球一球投げるのも体力やスタミナを消費するんだろう。それに、相手のミッドの中に入れようとするのに集中力がいる。

 糸井重里さんに『ボールのようなことば。』というタイトルの本がある。これを見た途端に「いいなあ!」と思った。表紙や挿入画が松本大洋さんだしね。そうか、ことばはボールなんだなあと考え始めると、さっきの「痛み」もいろいろと理解でき始める。相手のミットに届くように、しかし遠すぎないようにことばを投げるのはほんとうに大変だ。だから僕は、ころころと転がして相手がそれを拾うのを待つことが多い。「投げた」という事実さえ恥ずかしくなって、「別に拾わなくていいのに...」と思うこともしばしばある。でも不意に本気でボールを投げてみる。そうすると相手も同じくらいの強さで投げてくれて、手のひらでじんわりとした痛みを感じる。

 相手が投げてくれたことばをキャッチするのは嬉しいしどきどきする。でもあんまりその「痛み」ばかりを大事にしすぎると、面倒なことが起こる。とりあえず強く投げればいいと思って振りかぶって飛ばしたボールの痛みが、相手にいつまでも残ってしまうことがあって、それはよくないなあと思う。ほどよい強さ、ほどよい距離。

 こうやって不特定の人にものを書くのは、無数のミットに合うボールを投げなきゃいけないから大変だ。少し軌道が逸れてしまうと擦り傷がついたりごつんと体にぶつかってしまったり。だけど、文章を見る人からすると、よくわからない方向からボールが飛んでくるみたいな感覚なのかな。ことばというのは本当に不思議なものだと思う。ある人には全然届かないものも、誰かにはドストライクできれいに響く。そういうさまざまな化学反応がとっても楽しくて、毎日毎日わくわくしながら書いている。きっと糸井さんが「ほぼ日」で毎日あれこれ書いているのもそういうとこがあるんだと思う。

 「ありがとう!」と言ったあとに、海の向こうから「ありがとう!」が倍になって返ってきてくれたらとってもしあわせだ。そのときの「痛み」は、ベッドのなかで暖めてなるべく大事にしたいなあ。