先生

 小学校から高校まで、なぜか女の担任の先生に当たることが多かった。女の先生は怒ったとしても怒鳴るぐらいで、そんなに怖くはなかった。だから小学六年生になりはじめて男の担任の先生のクラスに当たったとき、結構ビビった。渡邊先生(漢字がむつかしい)という、五十代くらいで体育会系の先生だったが、僕の心配はぜんぜん必要なかった。気のせいかもしれないけど渡邊先生は僕にやさしく(でもときどき厳しく)接してくれた。先生と親との二者面談でも僕のことをたっぷり褒めてくれたようで、なんだか不思議だった。なにより不思議だったのは、先生が褒めてくれるのが嬉しくて僕自身のやる気が満ちていったことだ。小学六年生の終わりには卒業論文(大学のと比べるとうんとやさしい)を書かないといけないのだが、これも結構本気で頑張った。絵も張り切った。小学生の頃を思い返すと、一番に浮かぶのが渡邊先生のことだ。

 次に男の担任の先生のクラスになったのは、高二、高三のときだった。鈴木先生という人で、こちらは三十代後半くらいかなあ。国語の担当されている先生だった。僕はこの先生からいろんなことを学んだ。大学受験の最後の最後まで、ほんとうにお世話になった。この先生について話したいことは山のようにあるのだが、一つだけ書こうと思う。僕が書いた小論文を指導してもらっていたとき、「フェイクニュースって知ってる?」と質問された。それほど知らなかったので、先生にフェイクニュースについて教えてもらった。なるほど、と思ってふと先生の机を見ると付箋が貼ってあって、そこには「フェイクニュース」とメモしてあった。なんというか、すごく可愛らしい方だと思ったし、勉強熱心(というより、勉強が大好き)なんだと改めて分かった瞬間だった。

 先生という職業は、もっとちゃんとした理解を得てもいいんじゃないかと思う。何十人もの生徒を受け持つというのは、それだけエネルギーを使うだろうし、神経も働かさないといけない仕事だ。生徒の親とか、学校とか、いろんな障壁を感じながら、それでも毎日毎日何かを教えているのだ。先生によって、クラスは顔を変える。でもどれが正解なのかは、誰にもわからない。それを何年も繰り返してゆく。僕には、たぶんできない。

 人を教え、育てるということはむつかしいことだ。いろんな生徒の形があって、そのいろんな形をきちんと受け止めて、どう育ててゆけばいいのか、どの道を歩ませればいいのか考える。答えが分からないものに答えを付けなければならないのは、ほんとうにつらい仕事だろう。先生が照らしてくれた道を、僕はとりあえず進んでいこうと思う。あくまでも。