丸く、柔く

 すべてのことにやる気が起きない。面白い本を捲ってもすぐに飽きてしまう。甘いコーヒーを飲むこと以外楽しみがない。また身体が丸く、柔くなっている。シャワーを浴びるために服を脱いで、鏡に映る自分を見たときの情けなさ。ゴムボールみたいに膨らんで、いくらでも触っていられる。

 ああ、そうだ。やる気が起きないんだった。今はもう連休のことしか頭に浮かばない。春の暖かさにやられたのかもしれない。やらなくちゃいけないことも、考えておかないといけない未来もあるのだけど、どうでもよく感じられる。仲のよさそうな人達、賢明な人達。歩けばすぐに目に入るその景色も、ちょっと靄がかかっている。自分はそんな大そうな人間じゃない。

 耳にするニュースがどれも憂鬱で、そのニュース番組の構造もまた同じくらい憂鬱で、疲れてくる。だからもう、たけのこご飯や天ぷらを食べて、春の道を散歩するだけの日々を過ごしたい。久しぶりに詩でも考えながら、離れていく影を見送ったりして。

ルーザー

 高校に入学したとき、まさか部活に入らなくちゃいけないとは思っていなかった。しぶしぶ僕は囲碁将棋部に入部した。部室には僕のような眼鏡男が数人いた。はたして、僕が部活に参加したのは合わせて何回だろうか。大会にも参加したけど、仮病を装って途中帰宅した。どうしてここまで部活に熱中できなかったのか、今では疑問だ。

 二年生になったが、継続届は出さなかった。事実上僕は「帰宅部」になった。放課後、僕を呼び止める声があった。外見は、ナマズに似ている。『ちびまる子ちゃん』だったら永沢君のようなキャラクターだろう。彼は射撃部に属していたが、僕みたく「帰宅部」になり下がった男である。僕と彼はまあまあの日々を一緒に帰った。ほんの短い距離だ。大した会話をした覚えもないし、ほとんどが憎悪と偏見に満ちていた。なかなかクラスの中では吐き出せない真っ黒な感情を話しても彼は大笑いしてくれたのだ。

 彼といることによって、心のどこかで優越感を感じていた。もちろん彼と話していると素直に楽しい。でも、テストの点数を比べたときに自分の方が少しだけ優れているから、高い位置にいる気分を味わっていた。もしかしたら、見た目だって自分の方が多少ましかもしれない。なんてことを、彼の隣で自転車を漕ぎながら思っていた。狭いクラスの中で擦り減った心。彼との会話の中でそれを補おうとしていたのか。

 成人式で久しぶりに彼と会った。何も変わらず、そいつはそいつのままだった。僕は彼のスーツ姿を笑い、向こうは僕の髪形をからかった。僕に話しかけてくれる人もいたけれど、どのグループの会話にもうまく入れず、誰とも連絡先を交換せずだった。一方彼の方は、いろんな人に声をかけられ、からかわれ、言葉を交わしていた。彼には親しみがあふれていた。人を惹きつける力が。

 僕は一人で水をぐびぐび飲みながら「いつも通りだ」と思った。僕は一人で、向こうは人だかり。中学のときを思い出す。友達と遊びに行く約束になって、なぜか電話をすることがあった。日時のことなんかでやりとりするためだろうか。僕はそわそわしていた。何回もかけようとしてはやめた。勇気を出して電話をかけた先では、何人かの男の声がした。さっきまでの落ち着きのない自分が途端に恥ずかしくなった。

 何のために勉強してきたんだ。そして今もしているんだ。どうしてお前は一人なんだ。僕はずっと誰かに憧れている。

キリンジと曇天

 午後になっても、物憂げな曇り空は変わらなかった。雨が降りそうで降らない、あいまいな天候。授業が早く終わったので、僕は服を買いに出かけることにした。ふと再生したキリンジの「雨は毛布のように」が心地よくって、今日はずっとキリンジのベストを聴いていた。気持ちが明るくなるわけでも、ものすごく泣きたくなるわけでもないけど、キリンジの音楽は心を地面から5センチくらいふっと浮かしてくれる。

 古着屋さんで買ったのは薄手のセーターだ。左胸のところに金色の熊がプリントされた、えんじ色のもの。安いのが何よりうれしかった。買ってすぐだけど、すごく着てみたくなって店の外でこっそりと着替えてみた。古着屋の匂いがする。鉛色の町並みを横目で眺めながら、また自転車を漕ぎ始めた。

 十月に入ったからか、空が暮れるのが早い。それに加え、どんよりとした暗い天気だ。近くのスーパーマーケットで今晩の食事の準備やおやつなんかを買って、時計を見ると5時半だった。だけどもうすっかり薄暗い。パートタイムが終わったのか、レジ係のお兄さんが外にいた。いつも物腰が低くて柔らかな印象の彼だけど、プライベートになるとそうではないのかもしれない...と考えると面白かった。暮れかかる町は、日の当たるときには見せない顔を見せる。それは疲れだったり解放だったり、哀愁だったりする。

 官能的な体の疲労や、うっとりと重くなったまぶたに、キリンジの「エイリアンズ」が甘美に聞こえる。金曜日は疲れがまとまってやってくるような気がする。ずうっと荷物を背負っていると気づかないが、それをいったん机上に置くと途端に腰がぴきぴきと鳴りだすようなものかな。今までの怠けがこうやってツケで返ってくるのだと思った(何回目だろう?)。

 これだけ厚く暗い雨雲に、夕陽も顔を出さなかった。陰鬱な青藍色を、自動車のヘッドライトが滑っていく。ユーミンの名曲「中央フリーウェイ」の歌詞を思い出した。「町の灯が やがてまたたきだす 二人して 流星になったみたい」。中央自動車道を走る車を、星に例えているわけだ。無機質な光も、流星だと思うと可愛らしく感じられる。はあ、眠たい。気だるくなりながら、僕は帰ってきた。帰ってすぐにセーターを洗濯機にかけた。この間買ってきたエマールを入れて、設定をドライにする。30分経って中から取り出すと、なんとなく懐かしい匂いがした。エマールで家族を思い出すとは...。そしてもうすっかり真っ暗な空を見ながら、「雨が豪雨になって...」と口ずさんでいた。

悪玉

 まだ幼い頃、仮面ライダーに夢中だった。朝早くに起きて、まだ薄暗い部屋でテレビ画面に集中していた。でも、正直内容はいっさい理解できていなかったと思うし、ただ格好いいアクションシーンが見たいだけだった。その証拠に、映画を観に行ったとき、アクション以外のシーンでは眠っていたらしい。Youtubeで久しぶりにその映像を見たときに、シリアスな中にどこかシュールさを感じて面白いなと思ったし、やっぱり格好良かった。

 ときどき、主人公よりも、サブや悪役が光って見えるときがある。時代が限定されてしまうけど、仮面ライダー555だとカイザ、仮面ライダー剣だとギャレン仮面ライダーカブトだとキックホッパーとかが好きだった。いいところは全部主人公に持っていかれるのだけど、控えめに活躍している彼らがまぶしく映ったのだろうか。「判官びいき」という言葉がしっくりくるかもしれない。

 キリンジの歌に、「悪玉」というのがある。名の通り、悪役についての歌だ。卑怯な手を使って、それでも負けてしまう彼の姿を、息子までもが蔑んでいるという状況が描かれている。なんて切実で、胸が苦しくなるんだろう。息子にさえ鋭い視線を向けられながら、負け続ける日々を繰り返している。「捨て身の奴に負けやしない 守るべきものが俺にはあるんだ」という歌詞がとても印象的だった。また、「千年紀末に降る雪は」はサンタクロースについての歌なのだけど、その冒頭は「戸惑いに泣く子供らと 嘲笑う大人と 恋人はサンタクロース」である。キリンジの歌詞で好きな部分は、あんまり描かれてこなかった景色を炙り出していることだ。悪役の生々しい裏側と、サンタクロースの虚しさ。

 スガシカオの『Sweet』に収録されている「正義の味方」というのも、キリンジの「悪役」と似ている。ごくごく平均的な家庭に、「もしかしてむかしは正義の味方で、今はもう出番がなくてずっと家にいるのかも」という視線を向ける。いや、普通考えて「んなあほな」と思うけど、この視線もすごく好きだ。そこには何気なく、「正義の味方」への憐れみみたいなものが微かに感じられる。

 いつまでも、王道ではないものに惹かれ続けるんだろうと思う。ちょっと横から大勢を眺めて、ぽかんと空想したり、秘かに活躍する人たちが好きだ。多分僕も、目立つのはそんなに得意じゃないから、地下あたりで社会を見つめているんだろうと思う。時には、悪役として。

それが夏休み

 中学生ごろの夏休みを、ふと思い返す。土曜日は朝からテレビを見ていた。おさるのジョージに、ひつじのショーン。そのあと「せやねん」という番組を見ながら、家族と朝ご飯を食べる。ぱっと思い出すのは、父が作る目玉焼き。胡椒が多すぎて少し辛くなってしまった目玉焼きだ。パンを食べながら、それをほおばる。コーヒーを飲んで、新聞の四コマ漫画とかラジオ番組表を見る。そして、顔を洗い、歯磨きをして、出かける準備をする。

 土曜日は、訳もないのに出かけていたような気がする。お金がなくても、とりあえず自転車を漕いでいった。駅の近くにあるデパートには、本屋さんとCD売り場がある。よくよく考えると、買いもしないのに立ち読みしてそのまま帰っていくという迷惑な客だった。僕が好きだったのは、ミュージシャンのインタビューとか、音楽雑誌だ。ポール・マッカートニーディスコグラフィーが載っているのを見て「次はこれを買おうかなあ」とか考えたり、デヴィッド・ボウイの写真を見て「かっこいいなあ...」とうなったりした。現在の僕の音楽知識がほとんどここで養ったんだろうな。

 僕が生まれ育った町には、CDショップがあんまりない。ないし、在庫があんまり多くない。だけど、とあるお店に僕好みのアルバムがたくさん置いてあって、そこでボウイの『レッツ・ダンス』やビートルズのアルバムを比較的安価な値段で買った。たしか、高校受験に受かったお祝いで頂いたお金はほとんど音楽に消えていった。夏休みに、冷房の効いた畳張りの部屋で、「ホワイト・アルバム」を聴いたりしていた。だからか、「Dear Pludence」を耳にすると初夏の風がふわりと思い浮かぶ。

 夏休みに淡々と勉強できる人がいたら、僕は素直に拍手すると思う。だって、夏休みですよ、夏休み。お昼まで眠っていたいし、好きなだけ音楽を聴いたり本を読んだり、時には街へ出てお茶をしたい。じっとしているだけで心は跳ね始めるし、新しい服に袖を通したくなる。日清カップヌードルを食べながら「吉本新喜劇」を見て、だらだら過ごしながら3時にアイスクリームを食べるのもいい。とにかく、真面目に何かをするなんてしたくない。すべて企画倒れになるのも、夏休みの一つなんだ。

 目覚めると、まず身体のだるさに気がついた。息を吸い込むと、ひゅうという音がする。あ、これは喘息だなとすぐにわかった。小さい頃は小児喘息で、寝るときには体が暖かくなってしまうと咳が止まらなかった。父も気管支が弱く、昔は一日一箱吸っていた煙草もすぐにやめて、今は食べる量が増えている。もう小さい頃だけだと思っていたのに、喉のあたりに楽器でも入ったかのような感覚で、呼吸するのさえ煩わしくなってくる。映画なんかで煙草を吸っているシーンを観ると「かっこいいなあ」と思うけれど、吸うことは一度としてないんだろうな。

 シャワーを浴び、ご飯を食べたりしていると咳き込むのはやんだ。最近鼻の調子が悪かったけど、それが喉にも来たのか...。窓から空を眺めると、仄暗い雲が見えた。また雨かと憂鬱を感じながら、今日は4限目に補講があるから、仕方なく着替えて外へ出た。紫ピンクの傘をさし、信号を渡る。しばらくすると青い空が覗いてきて、水たまりがガラスのように空を写していた。

 補講には十人ぐらいしか出席していなかった。この講義を履修しているのは約三十人だから、かなり少ない。欠席しても別にカウントされないし、補講の内容はテストに出ないから休むのは当然なのだけど、なんとなく出たいなあと思わせる講義なのだ。人数が少ないからか、先生の話も脱線する。「僕が2015年のときに研究会で話した内容が思った以上に好評で、早く論文にしてくれと言われたんですけど...、子どもが生まれてからその計画が全部壊れましたね笑」。ああ、子どもが生まれると優先順位が全部子どもになるんだなあと考えながら、ふと父の姿が思い浮かんだ。

 父は僕とはかなり歳が離れていて、僕が生まれたときにはもうずいぶん先に行っていた。だからか、話をすることがあまりない。でもふとした瞬間に話す機会が生まれ、僕が一方的に話し、父がそれを聞く。自分の思ったこと、自分の好きなことを父に話すと、不思議な気持ちになる。なんというのだろう、一番ありきたりな言い方をすれば、「心が弾む」。軽く心が震え、落ち着かなくなってくる。声が上ずって、心臓が機関車のように激しく高鳴る。父に話すのは(なぜか)かなり勇気がいる。だからそのハードルを越えたときの落ち着きとも言えるかもしれない。今でも、自分の意見を声に出して誰かに伝えるときはやっぱり緊張する。自分の声を相手が受け取り、内面化していることへの恥ずかしさを感じる。だから文章で喋ること頼り、依存しているのだ。 

珈琲ミルク

 キリンジの「グッデイ・グッバイ」のミュージックビデオを見ていたら、喫茶店でサンドイッチが食べたくなった。舞台は東京練馬区にあるという喫茶店「プアハウス」。キリンジの二人がそこでサンドイッチを待っていると、失恋したばかりの男の子が入店する。渋いマスターがてきぱきとハムやチーズ、トマトにサニーレタスなんかを挟んでいく。そうして出来上がったサンドイッチを、鋭い目をした女性が二人の元に運ぶ。口に運ぶ二人。踊りだすマスターと女性。「グッデイ・グッバイ」を口ずさむ男の子。ラストは、晴れた青空の下で二人がギターを弾き、歌う。村上春樹の小説に出てきそうなお洒落な世界観で、いいなあと思った。「プアハウス」は実際に存在するらしくて、カレーが有名なのだそうだ。

 僕にとっての喫茶店は、ドトールだ。チェーン店だけど、僕の住む町には一店しかない。あなたの住む町にはどのくらいあるのだろうか。高校生のときにもよく行ったし、商店街の方へ出かけるときにはだいたい寄っている。細くて狭い入り口。高い確率で若い女性が「いらっしゃいませ」と言う。ミラノサンドA(生ハムが挟んであっておいしい)とアイスコーヒーを頼む。代金を払い、隣へ移動してそれを待つ。店員さんがハムを挟んだりナイフで切ったりしているのを眺めるのは楽しい。「ミラノサンドのAをご注文の方、お待たせいたしましたぁ」、僕はそれを持って二階へ上がる。隅っこの方に腰を下ろして、まずはウェットティッシュで手を拭く。それからぱくぱくと食べたり、コーヒーを飲む。

 ドトールによるのかもしれないけれど、僕が昔行っていたドトールは勉強ができた。二階の窓側の席で、受験生らしき人が静かに学習しているのを何回も見かけたことがある。僕と友達も「勉強しよう」とそこへ行くのだけど、どうも話の方が盛り上がって全然身にならなかった記憶がある。けれど喫茶店で本を読むのは楽しく、村上春樹の『雑文集』やカズオ・イシグロの『日の名残り』をぺらぺら捲りながら、コーヒーをごくりと飲んでいた(どちらも読了していないけど)。

 街を歩くのは好きだけど、疲れたときに落ち着ける場所はやっぱり喫茶店ぐらいだと思う。でも、コーヒーを飲み終わったらもう出ないといけないように感じる。外国人講師として大学に来ている女性が言っていたけど、昔の喫茶店はずっといれる場所だったようだ。いつまでもだべって、もう一杯おかわりなんかして、日が暮れる頃に帰る。そんな場所であって欲しいなあと、わがままに思う。