ひとりぼっちたち

 泥臭いアメリカのブルースみたいな気候だと思った。つい目を細めてしまう。気が付くと汗がつーっと伝っていく。ここまで暑いと、些細なことでいらいらしてしまう。なんでこのおばさんはのろのろと自転車で走ってるんだろう。なかなか信号が青に変わらないなあ、早く変わってくれぇ。マック・デマルコの爽やかなギターの音色も、カンカン照りの日差しを演出しているみたいに感じられる。

 今日は、読書レポートを書き終えた。ポール・オースターの『幽霊たち』について。この物語は、「孤独」という箱の中で進められる。登場人物であるブラックはこう語る。「書くという行為は孤独な作業だ。それは生活をおおいつくしてしまう」。オースターはインタビューのなかで、孤独は非常に複雑なものだと答えている。人として当たり前のように備わっているものでもあるし、逆に他人から教えられるものでもある、と。物語の主人公、探偵ブルーはホワイトという男から、ブラックを見張るように依頼された。ずっと、ずうっとブラックに関する報告書を書くブルーは、だんだんとすさまじい孤独感を覚え始める。世界が小さくなり、読者もその狭い空間の中に引き込まれていく。孤独な箱の中に。

 先日、宇多田ヒカルさんのドキュメンタリーを見た。彼女はいつものように独りでうんうんと作業していたし、そこに自負を抱いているように見えた。自分一人で作品を作りこんでいくこと。たった一人で真実を描いていくこと。それが当たり前で、そのやり方が一番しっくりくるのかもしれない。でも面白かったのは、ある曲に一人でずっと悩み続けて、ついに三年の年月を経たとき、レコーディングメンバーに相談したところすぐにそれが解決してしまった。宇多田さんもすごく驚いていたけど、案外そういうものなのかも知れないとも思った。自分がえんえんと悩んでいたことを、他者がするりと答えを出してくれる。

 先程の『幽霊たち』に話は戻るが、ここで描かれている「孤独」はアメリカと大きな関わりがあると思う。オースターの個人的な要因もあるだろうが、アメリカの歴史との関係が気になった。もともとイギリスなどの植民地だったが、それらから独立したアメリカ。自由とともに得たのは、おそらく孤独ではないか。そんな孤独な状態から始まり、今の大きさへと成長していった。アメリカという国が、一つの物語のように思える。

 ツイッターなどで絵や漫画を見る度に、「きっとこの人は一人で、時間をかけてこれを作り上げたんだなあ」と考える。何かを仕上げるために自分一人で、孤独に付き合っている姿は、なんだかうつくしい。あ、そうだ。夏の暑さに、どうかお気をつけて。大変なら仮病で休んだりすればいいんです。

劇場

 シェイクスピアの『リア王』を、大学のゼミで読解している。例えば「今週は99ページから113ページ」という風に区切られて、その中から自分の担当箇所を決める。毎週4人がレジュメ(プリントみたいなもの)を作成し、ゼミの時間に発表する。どのようなレジュメを作るのかというと、まず担当した箇所の要約を、それから文章を抜粋して英語の文と自分で訳した文を書く。訳すのがなかなか面倒だけど、翻訳の本をちらちら見ながら自分の訳を見つけていく。

 そして、明日の授業でそれが終わる。面倒なことに、最後の最後を僕がすることになった。今日は、図書館に行って地味な作業をおこなった。Wordを開いてかたかたと打ち込んでいく。ここを抜き出そうと選んだ文は、リアが亡くなった後の登場人物たちの会話。英語の文を書き、そして日本語に訳そうとしたのだけど、そこで気が付いた。最後の台詞、英語のテキストと翻訳のもので言っている人物が違う。英語の方はALBANYが言っていて、僕が持っている新潮文庫版の『リア王』ではEDGARという人物が言っている。何回も見直して、一度は間違いかと思った。それで図書館にある『リア王』の本を何冊もチェックしてみたら、両方のパターンがあって戸惑ってしまった。自分が訳していてしっくりくるのはEDGARが言っている方だけど、教科書(英語のテキスト)がALBANYになっているから違和感が残る。そこでゼミの先生にメールをしてみた。少しして返事が届いた。〇〇くんが適切だと思うほうで構わないですよ、と言って下さって気持ちがとても楽になった。この最後の台詞は、どの人物が言うかで、劇の印象も変わってくる。それくらい大事な台詞だと思う。でもラストに二つのパターンがあるなんて、さすが歴史のある劇だ。

 終わったのは6時半だったけど、まだ外は明るくて、何人かの学生が夏のお祭りを目指して踊りを練習していた。風は涼しく、僕の欠伸はとても呑気なものだった。帰って餃子を作り、作り置きしていたごぼうとお揚げの煮物を頬張り、バスルームで歌をうたった。そして今。テレビは今週から始まるドラマが映っていて、ちょうどスタンドライトの電球が切れてしまった。眠たい目をこすりながら、まだ残っている課題のことを考えている。もう少し余裕をもって取り組んでおけばよかったかなあ。

 最後に、僕が訳したエドガーの台詞を。「この悲劇的な時代の重荷は、私たちが背負わなければならない、これからは、言うべきことではなく感じたことを話しましょう。もっとも年老いた方がもっとも耐え忍ばれたのだ。若い我々はこれほど多くを経験せず、これほど長生きしないだろう」。悲劇が終わったあとの、光を探し求める台詞。明日、僕はこれを声にして読む。

地下に生きる魔術

 雨がずいぶん長い間降り続いている。ときどき力強い風が吹いて、木立や枝葉が揺らされる。どれだけ土が雨粒を受け止め、飲み込んでも、やっぱりすぐにぐちゃぐちゃになってしまう。そして確かににじんでゆく。

 今日、麻原彰晃を含む、「オウム真理教」の元幹部らに死刑が執行された。1995年にはまだ生まれていない僕は、彼らが引き起こした事件を「歴史的事実」として知っているだけで、当時の空気感や絶望感はまったく何もわからない。だから、彼らに向けられる怒りも、僕には少し違って見える。どうしてあのような事件を引き起こしたのだろう。それには宗教的な背景も含まれているかもしれないし、そうだとしたら尚さら理解はむつかしくなるだろう。でも、「オウム真理教」という一つの受け皿が、一部の人の救いになっていたのは事実だ。実力や知識は豊富なのに社会から拒絶された人々にとっての、救済の場。まるで魔法みたいに思えただろう。今まで誰にも相手にされなかった自分が、今誰かの役に立てているように思えるのだから。そうやって、この宗教団体は大きくなっていった。(僕のこの考えは少なからず間違っているかもしれないが)地下鉄サリン事件は、多くの人を排除してきた社会へのカウンターだったんじゃないか。いや、どうしてそれが罪のない人々に向けられなければならないんだとも思う。そう、結果的に残ったものは罰しかないし。

 例えば、水を出しっぱなしの蛇口を指で塞ぐをしよう。それでも水は放出され、行き場を失った彼らは指の隙間から飛沫(しぶき)として外へ出ていく。オウムは無くなったが、その後継である組織(アレフ)はある。そんな風に、まだどこかに「魔術」を必要としている人たちがいる気がしている。自分みたいに地下鉄サリン事件以後に生まれ、育った人たちにとってはもっと「魔術」が美化された、幻想的なものに映るかもしれない。彼等には今日、死刑が執行されたが、果たして社会はどれくらいよりよくなったのだろう。二度とあのような事件が起こってはいけないが、今はもう起きないという確証はどこにもない。誰かの(僕の、またあなたの)孤独や弱みを握って、糸でつながれて、いつの間にかどんどん闇の方へ沈んで行ってしまうような危険性が、今もある。だって、「この人のどこにカリスマ性があるんだろう」という人が、実際多くの人を惹きつけたわけだから。いとも簡単に、僕らは操られる。「この人たちは自分を必要としている」という虚妄を抱いて、共生できているという夢を見て、危ない旅に出かけていく。

 彼らはどこから来て、そしてどこへ向かうのか。今もひっそりと、地下を流れる雨水のように静かに、「その時」は来るかもしれない。孤独や他者依存という普遍的な欲望を餌(えさ)にして、どんどんと成長しながら。

三日月

 ‘‘want’’という英単語の元々の意味は「欠けている」だったらしい。そして、「欠けているから欲しくなる」という流れから、「欲しい」という意味が生まれ、そちらが今も定着している。うん、足りないものは欲しくなるのだ。睡眠も、食事も、休養も。そして、満ち満ちている赤の他人を見ると、なお一層その欲望は高まる。それが自分と同じ年齢で、友人関係であれば...。

 今日の授業で、武者小路実篤の『友情』について学んだ。大まかに言ってしまえば男女の三角関係のお話。野島は友人仲田の妹、杉子に一目惚れするが、杉子は野島の親友である大宮のことを好きになる。大宮は運動神経も豊かで、紡ぐ作品も世間に評価されている。野島が杉子に惚れていると知っている大宮は、心の片隅で彼女のことを想う。そして彼は突然ヨーロッパへ行くと言い出す。野島は恋敵が居なくなったことへの安心と、切なさを感じる。大宮が日本を発って一年後、野島は杉子に結婚の申し込みをするが、断られる。悲しみに暮れる彼のもとに、パリにいる大宮から手紙が届く。そこには「自分は君に謝らなければならない」という言葉と、某同人誌に書いた小説を読んでくれというメッセージがあった。その小説の内容は、大宮が杉子へ抱いていた恋心と野島との友情に苦悩する心情を吐露するものだった。野島はさらに悲しみ、打ちひしがれるが、大宮に「仕事の上で決闘しよう」と手紙を書き、力強く成長することを決意する。

 僕はずいぶん、野島というキャラクターに同情した。杉子に尊敬されたいと思いながら、自分の満たされない自尊心を埋めてほしいと願う。文武両道で容姿も端麗な大宮に対して嫉妬する心。風邪を引いて淋しくなって母の元に帰りたくなるシーン。自分には何もないのにも関わらず「ある」と誰かに言ってほしい虚しさ。そして大宮が好きな人と結ばれてしまって、悲しみの底に突き落とされてしまう。僕がもし野島だったとしたら、そこでずっと生きていると思うけれど、彼はそこから浮かび上がって前に進むと決める。自分には何もないと感じ取ってしまうと、虚構の何かを作り出してしまうときがある。野島もきっとそんな人間だった。その「虚構の何か」を誰かに認められようとして、無駄に汗を流す。野島の強さは、そこから抜け出して本当の何かへと歩みだせたことじゃないかな。

 三日月が美しいのは、これから満月へと変化していくからだと思う。どんどんと満ちていく過程にある美しさ。野島を見ているとそんなことを想う。僕もそんな風に進化していけるのだろうか。偽物の光に騙されないように...。

浪漫飛行

 突然ここでラオスあたりに旅をしに行ったら何が変わるのだろう。多分そんなに変わることはない。授業の単位が取れなくって一学期が全部パアになってしまうけれど、せいぜいその程度だ。唐突にすべてを忘れてぴゅーっと消えてしまいたい時がある。『ドラゴンボール』で孫悟空が「んじゃっ」と言って瞬間移動するように、ある朝急に思い立ってバスでどこかへ出かけてみたい。そうなったとき、「あ、やっぱり学校がいいわ」と思うのだろうか。さあね。

 今はいろんな事情があってどこかへ行くことはできない。そういえば、修学旅行以外でどこかへ行ったことがあまりない。でも知らないところを歩くのは好きで、旅行記を読んでいるとわくわくしてくる。さくらももこさんの『もものかんづめ』から『たいのおかしら』のエッセイはとてもお気に入りで、人に貸してそのまま返ってきていないぐらい面白いのでお勧めだ。『さるのこしかけ』は、ももこさんがインドに行ったりポールマッカートニーのライブに行ったり...という内容で、ももこさんの行動力すごいなあと思いつつ、相変わらずちゃんと笑いどころを作られていて、ほんとにすごいなあという言葉しか見つからない。

 それにしても、休むということは楽しい。あまりしないけど、ときどき授業をサボるときがあってちょっとしたスリルがありつつも「よし、やってやったぞ」みたいな達成感もある。この間は、金曜四限の授業の時間に路面電車に乗って服を買いに行った。あれこれ服を見たり鏡で「似合ってるかなあ」と確認している間、他の人たちが黙々と書き込んだり眠気を我慢して先生の話を聴いているのだと考えてたら少し痛快だった。いや、これが大人の社会で、僕がサラリーマンだったら「痛快だなあ」なんて言えない。それなりの罰則と周りの冷たい風当たりが待っているに違いない。でも、みんなが「休みたい...」と思いながらきちんと朝起きて夜遅くまで勤めているのはどこか奇妙だなあ。たぶん、休みたい休みたいと思っている人ほど、いざ休暇ができると部屋で一日中過ごしたりするのだ(多分)。

 話は変わるけれど、僕はときどき「人との関係を唐突に全部無しにしたくなる衝動」に襲われる。それは淋しいときだ。淋しいのに、もっと自分を孤独に陥れたくなる。きっと一人旅は孤独なものだろう。能動的に一人になるのだから。ちょっとした裏切りに近いものだ。人と打ち解けるのが苦手な性分で、人との関わり方もあんまりわからない。たぶんずっと「浮いて」いて、アンナチュラルだと思う。だからそういううざったいものを全部一旦ナシにしてしまいたいのかもしれない。あやとりをしている途中で糸をぐちゃぐちゃに丸めて捨ててしまう子供のようだな。

 旅に出たい。‘‘中途半端に自分のことを知っている世界’’じゃないところに。

日日是好日

 月に一度、必ずと言ってもいいほど頭痛に見舞われる。今日がその日だ。ずきずきと痺れるような痛みを感じながら、これを書いている。へんてこな気分だ。たぶん今日のは気圧のせいだと思う。雨の日は頭痛になりやすいと聞くし。頭だけが熱を持っていて、手を当てるとどくどくと血が流れているのを感じる。ミミズだってオケラだってアメンボだって~、って曲をなぜか思い出した。

 今日は、9時に目が覚めて、少しぼんやりしたあとテレビを点けた。それから洗濯をして、シャワーを浴び、ご飯を食べた。何をしようかとぼんやり考えていると、空は薄曇りだけど別に雨は降ってなさそうだと分かった。出かけよう。唐突に、本屋さんへ行きたいという欲が生まれた。一昨日の授業で、樋口一葉の「たけくらべ」を習ったから、それの現代語訳版でもあればと思ったのだ。自転車を漕いで、信号を渡り、緑を抜けた。近所と呼べるほど近くではないが、10分もあれば辿り着く距離に本屋さんはある。予想に反して、車の数が多かった。静かな場所。さっそく「たけくらべ」を探すけれど、児童書版も現代語訳版もなく、ただむつかしいものしかなかったので、他の本をぺらぺら捲ったりして堪能した。

 湿った空気が暑苦しくて、本屋を出た。やらなきゃいけない課題があったので、学校へ向かう。パソコンを開いてかたかた記入していると、じんわり頭が痛くなってきた。日曜日の図書館。パソコンを開いてゲーム実況を見ている人や、語学の勉強をしている人。さて、この後は家に帰ってしようと決めたあと、上の階に行って本棚を見ていたら、「たけくらべ」を川上未映子さんが訳しているのを見つけて、すぐに手に取った。桜色のカバー。樋口一葉のほかに、夏目漱石の「三四郎」と森鴎外の「青年」を収録していて、かなり分厚い。値段を見ると2900円(税別)とあった。すごい。それを借りて、リュックサックに入れた。

 それにしても、頭が痛い。だけど、明日にでも「たけくらべ」を読むのが楽しみだ。しかも、川上未映子さん。好きな作家さんが好きな作品を訳されているのがすごく嬉しい。低気圧のためか、さきほど通り雨の音がした。ほんの数時間前は「日本のセクハラ問題について書いてやろう!」と思っていたけれど、ちょっとそんな余裕ないわ...と(文字通り)頭を痛めてこんな感じにした。頭が痛い雨の日の、なんでもない一日。昨夜、宇多田ヒカルが出演していた「SONGS」が今も記憶に強く残っている。頭を痛ませて過ごした一日が、幸福に繋がっていたら嬉しい。

ステレオ

 ビートルズを聴いている。『With The Beatles』で、今は2曲目が流れている。右耳ではボーカルとコーラスの声が、左耳ではギターやドラム、ベースなどの音が聞こえる。イヤホンって、必ず片方がまずダメになるから、その瞬間からビートルズの音楽は聴けなくなる。片方だけでは、あまりにも不自然で、気持ちが悪い。右と左で聞こえる音が違うのをステレオ、どちらからも同じ音が流れるのをモノラルと言う。ちょうど今の朝ドラの主題歌(星野源さんが作って歌っています)にも、「すべてはモノラルの世界」という歌詞が出ている。

 「もう片方ないと困る」という思いは、生きていてもいろいろと感じる。例えば、あの世とこの世があるからこそ、やっと生きていることについてあれこれ考えることができるし、現実と虚構があるからこそ、汲み取れるものもたくさんあるのだろう。二つあるから、やっと世界が成り立っている。僕はたびたび「生きるのしんどいなあ、やめたいな」と思うことがあるけれども、もしも「死」というものがなかったらどういう目線で今を見つめていたんだろうと不思議になる。常に「死」に向かってみんな生きているけれど、誰かの死に触れるたびにどこかで自分の立ち位置を確かめる。中学生くらいの自分は割と本を読んでいたのだけど、それはきっと、周りの人とどうやって打ち解ければいいか分からなかったことが作用していたんじゃないか。「嘘」を拠り所にして、ずっと過ごしてきている。作者が誰に向けて嘘を作ってくれたのか分からないけれど、僕はそれを生餌にして、濁った水を泳いでいる。だからと言って全部が嘘になってしまっても、それはそれでつまらない。

 僕は人文系の学科で学んでいる。人文科の目指すところは、市民を作り出すことだ(と先生が言っていたからたぶんそうだ)。市民。どのような知見でもある程度理解できるように、最初の一年間は幅広く学ぶ。そうはいっても僕は理系の知識はほとんどないし、テストをすれば赤点を免れない。なぜそのようなことをするのか。僕は二つの理由があると思っている。一つは、専門分野以外の情報もそれなりに理解できるようにすること。それは、学びに差異をつけないことへも繋がっているだろう。もう一つは、専門の学びだってきっと、異分野の学びに刺激を受けることもあるということ。...うん。

 自分のいるところとは違う「あちら側」があって、そうやって世界が丸く収まっている。あちらの世界は、どんな音が流れているのだろう。イヤホンがいつか壊れてしまうまで、こちらは符号を紡ぐしかない。すごく、地味なメロディ。