わたしを離さないで

 ゼミで、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んでいる。来週の授業でもう物語は終わりを迎え、そろそろ総括になりそうだ。自分はSFを読むのが苦手だから、最初の方は読み進めるのが亀のようにスローだった。それでもところどころに散在している疑問点を追いかけるように紙を捲った。そして授業に出る。ゼミの他の学生の意見を聞いて、自分の読み方が揺らされて「なるほど」と思う瞬間。一人で読書するのがふつうになった今ではかなり貴重な気がしている。

 話は変わるけれど、2018年に『Detroit: Become Human』というゲームが発売された。舞台は西暦2038年のアメリカ、デトロイト。科学技術の進歩によってアンドロイドが大量生産され、重労働を担うようになり、その一方失業する人間が増加した。ゲームのプレイヤーはそのアンドロイドを操作して物語を進めていく。だから僕らは自然とアンドロイドの気持ちに寄り添って、理不尽な人間に対して怒りを覚えたりする。キャラクターがどうなるのか、ストーリーがどう展開するのかはプレイヤー次第だけど、その中に面白いなあと思う部分があった。アンドロイドが自分たちの自由と権利を求め、デモを起こすのだ。

 『わたしを離さないで』を読み終わっていろいろ考えている途中、このことが思い浮かんだ。くわしくは言わないけど、ここに出てくる登場人物と、読み手である僕らはほとんど異なる存在だ。だから線で区切って、違いをいろいろ見つけ出そうとする。人間である僕らと、人間ではない彼らのあいだで。

 僕らは「まっさかアンドロイドが感情を抱くはずがない」と思っている。だからどんなに過酷な環境に置いたってぜんぜん大丈夫だと考えている。わたしたちとは違うから。わたしたちは心を持っているから。これから先、どんどんアンドロイドが社会に投入されたらどういうことが起きるんだろうと予想してみる。もしかしたら、人文系の価値が上がるかもしれない。機械と人間とを比較し合って、いやわたしたちは家族を持ち自然を愛し利他的な存在ですよ、なんてことを言い出すかもしれない。彼らにはない、人間しか持ち合わせていないものばかり気に取られて、不安になるだろう。経済のことばかり考えるのなら、人間なんて要らない。いや、そもそも、人間が必要な理由って...?そういう面白い問答が繰り返されそうで、結構興味があるのだけど。