図書館にて

 今、大学の図書館の2階でこれを書いている。男子学生が2,3人いて、独特の暗い空気を感じている。カポーティの『夜の樹』を面白そうだなと手に取った。たぶん借りると思う。

 小学校の頃から、図書館は大事な場所だった。中学の時は誰も図書館に行ってなかったからなんとなく気が引けて足が進まなかったけど、高校のときはかなりお世話になったな。小学校のときにはクラス委員というのがあって、僕はずっと図書委員だった。お昼休みや放課後に席に座って、カードに判を押したり、返却された本を棚に戻すしごとをしたり。よく覚えている本は『ゴリラを訪ねて三千里』という、ひたすらゴリラのことが描かれている本で、名前がおかしくって借りた。あとは、おばけの本とか好きで読んでたかなあ。高校の図書館は少し自慢することがあって、山本渚さんの小説『吉野北高校図書委員会』の舞台になったところだ。山本さんも図書委員だったようで、仕事をしているとなんだか不思議な気分だった。そこの図書館には司書さんがいて(年齢はよくわからないけど、可愛らしい女性だった)、仕事が終わると司書さんがいつも一口サイズのチョコをくれた。自分の教室に帰るまでのあいだチョコを味わった記憶は、今も残っている。

 図書館には、いくつもの文字が、紙が、表紙が収められている。本屋さんでは見かけなかった作品をふいに見つけて、ぴんと張りつめた静けさの中でそれを読むというのは、僕にとってはかなり楽しい作業だ。高校三年のとき自習をしていて、勉強に飽きたから本を読む傍ら、友達と絵しりとりしていた思い出が今これを書いていて出てきた。なんで絵しりとりしてたんだろ。バカだなあ。

 ここには、一生僕に読まれない文章があり、一生僕が知らずに終わる作家がいる。そのことを考えるとゾクッとするし、ソクラテスのいう「無知の知」を意識せざるを得ない。あと、図書館特有の匂いが好きだし、ときどき誰かが引いた線や書いた文字を見ると面白い(『ウォーリーをさがせ!』は別だけど)。

 これからもドンドン作品は増えていくだろう。そうした時代の波に消され、図書館からそっと姿を消す作品のことを想うと切ない。たぶん、新潮社で行っている「村上柴田翻訳堂」は、時の流れの中で薄れてしまった光をもう一度磨きたくて作られたのだろう。ここで翻訳されたジョン・ニコルズの『卵を産めない郭公』は本当に美しく、若々しい作品だった。あなたもぜひ。