日日是好日

 月に一度、必ずと言ってもいいほど頭痛に見舞われる。今日がその日だ。ずきずきと痺れるような痛みを感じながら、これを書いている。へんてこな気分だ。たぶん今日のは気圧のせいだと思う。雨の日は頭痛になりやすいと聞くし。頭だけが熱を持っていて、手を当てるとどくどくと血が流れているのを感じる。ミミズだってオケラだってアメンボだって~、って曲をなぜか思い出した。

 今日は、9時に目が覚めて、少しぼんやりしたあとテレビを点けた。それから洗濯をして、シャワーを浴び、ご飯を食べた。何をしようかとぼんやり考えていると、空は薄曇りだけど別に雨は降ってなさそうだと分かった。出かけよう。唐突に、本屋さんへ行きたいという欲が生まれた。一昨日の授業で、樋口一葉の「たけくらべ」を習ったから、それの現代語訳版でもあればと思ったのだ。自転車を漕いで、信号を渡り、緑を抜けた。近所と呼べるほど近くではないが、10分もあれば辿り着く距離に本屋さんはある。予想に反して、車の数が多かった。静かな場所。さっそく「たけくらべ」を探すけれど、児童書版も現代語訳版もなく、ただむつかしいものしかなかったので、他の本をぺらぺら捲ったりして堪能した。

 湿った空気が暑苦しくて、本屋を出た。やらなきゃいけない課題があったので、学校へ向かう。パソコンを開いてかたかた記入していると、じんわり頭が痛くなってきた。日曜日の図書館。パソコンを開いてゲーム実況を見ている人や、語学の勉強をしている人。さて、この後は家に帰ってしようと決めたあと、上の階に行って本棚を見ていたら、「たけくらべ」を川上未映子さんが訳しているのを見つけて、すぐに手に取った。桜色のカバー。樋口一葉のほかに、夏目漱石の「三四郎」と森鴎外の「青年」を収録していて、かなり分厚い。値段を見ると2900円(税別)とあった。すごい。それを借りて、リュックサックに入れた。

 それにしても、頭が痛い。だけど、明日にでも「たけくらべ」を読むのが楽しみだ。しかも、川上未映子さん。好きな作家さんが好きな作品を訳されているのがすごく嬉しい。低気圧のためか、さきほど通り雨の音がした。ほんの数時間前は「日本のセクハラ問題について書いてやろう!」と思っていたけれど、ちょっとそんな余裕ないわ...と(文字通り)頭を痛めてこんな感じにした。頭が痛い雨の日の、なんでもない一日。昨夜、宇多田ヒカルが出演していた「SONGS」が今も記憶に強く残っている。頭を痛ませて過ごした一日が、幸福に繋がっていたら嬉しい。

ステレオ

 ビートルズを聴いている。『With The Beatles』で、今は2曲目が流れている。右耳ではボーカルとコーラスの声が、左耳ではギターやドラム、ベースなどの音が聞こえる。イヤホンって、必ず片方がまずダメになるから、その瞬間からビートルズの音楽は聴けなくなる。片方だけでは、あまりにも不自然で、気持ちが悪い。右と左で聞こえる音が違うのをステレオ、どちらからも同じ音が流れるのをモノラルと言う。ちょうど今の朝ドラの主題歌(星野源さんが作って歌っています)にも、「すべてはモノラルの世界」という歌詞が出ている。

 「もう片方ないと困る」という思いは、生きていてもいろいろと感じる。例えば、あの世とこの世があるからこそ、やっと生きていることについてあれこれ考えることができるし、現実と虚構があるからこそ、汲み取れるものもたくさんあるのだろう。二つあるから、やっと世界が成り立っている。僕はたびたび「生きるのしんどいなあ、やめたいな」と思うことがあるけれども、もしも「死」というものがなかったらどういう目線で今を見つめていたんだろうと不思議になる。常に「死」に向かってみんな生きているけれど、誰かの死に触れるたびにどこかで自分の立ち位置を確かめる。中学生くらいの自分は割と本を読んでいたのだけど、それはきっと、周りの人とどうやって打ち解ければいいか分からなかったことが作用していたんじゃないか。「嘘」を拠り所にして、ずっと過ごしてきている。作者が誰に向けて嘘を作ってくれたのか分からないけれど、僕はそれを生餌にして、濁った水を泳いでいる。だからと言って全部が嘘になってしまっても、それはそれでつまらない。

 僕は人文系の学科で学んでいる。人文科の目指すところは、市民を作り出すことだ(と先生が言っていたからたぶんそうだ)。市民。どのような知見でもある程度理解できるように、最初の一年間は幅広く学ぶ。そうはいっても僕は理系の知識はほとんどないし、テストをすれば赤点を免れない。なぜそのようなことをするのか。僕は二つの理由があると思っている。一つは、専門分野以外の情報もそれなりに理解できるようにすること。それは、学びに差異をつけないことへも繋がっているだろう。もう一つは、専門の学びだってきっと、異分野の学びに刺激を受けることもあるということ。...うん。

 自分のいるところとは違う「あちら側」があって、そうやって世界が丸く収まっている。あちらの世界は、どんな音が流れているのだろう。イヤホンがいつか壊れてしまうまで、こちらは符号を紡ぐしかない。すごく、地味なメロディ。

まだまだだね

 先週解いたテストが、今日返却された。論述問題が2問あったのだけど、僕はあまり点数を見たくなかった。もし、全然かけてなかったらどうしよう。文章を書くのが好きなのに初歩からできていなかったら...。いろんな「もしも」で頭の中がいっぱいになった。先生に名前を呼ばれ、僕はテスト用紙を受け取った。よかった、別に悪くない。でも改めて文章を読んでみると、いろいろ抜けていて、主語や述語、「いつ、どこで」なのか、ということが書けていない部分があった。

 自分の文章力が数値化され、評価されるのが怖い。数字という物差しがあまりにも的確ではっきりとしているから、自分がどれくらい書けているのか(または書けていないのか)目に見えて分かってしまう。数字は怖い。でも何十年も文章に関わってきた先生がつけた点数だから、その重みも感じる。自分はまだまだ文章がなっていない。そう考えるとここで自分の文章を公開していることに恥ずかしさを覚えるのだけど、数年経って「やっぱりまだまだだったなあ」と思えるように日々努力していたい。

 文章を書いてそれでご飯を食べている人たちは、自分の文を「いつもよく書けている」と思っているのか、「まだまだ未熟だ」と思っているのか、どちらなんだろう。人それぞれだろうけど、後者の方が強いメンタルを持っているように感じる。何年も文章を書いていると、余裕や自信が自然と付いてくるものだ。それでも毎度のように「自分はまだまだだなあ」と評価できるのは、それだけ文章を俯瞰して、変なフィルターをかけずに読めているからだと思う。自分の文章がどれくらいできているのかなんて、あんまり分からない。他人の文章を読んでも的確に評価することが非常にむつかしい。それはきっと、自分が無意識的に文章を書いているからだし、どういうものがきちんとした文章なのかきちんと把握しきれていないからだろう。その意味でも、自分はまだまだなのだ。

 果たして、ゴールはどこにあるんだろうか。どの職でも言えることだろうけど、おごらずにずっとやっていくのは一つの才能だ。自分のなかで安易に「こんなもんで」とオチをつけるんじゃなく、「もっと、もっと」とどんどん掘り進めていく。ストレスもあるだろうし、きっと追い詰められるだろう。好きなものを仕事をしている人は特に大変だと思うけど、そういうハングリー精神は新しいものを作り出すうえで欠かせないんだろう。きっと。

 さて、大学生になってもテストがあり、点数が付けられる。その度に自分の至らなさを実感して、次に繋げていく。めんどくさい。だるい。「自分はできる」と胸を張りたい。でも、それはまだもう少し先のことだ。

その時

 朝起きて、眠たい頭のままツイッターを開く。タイムラインを遡っていくと、だんだんと「大変なことが起こったんだな」ということが分かってくる。と同時に、心が汗をかく。今、冷蔵庫にはほとんど何も入っていないし、ご飯も炊いていない。みるみる不安が募ってきて、寝ぼけた頭で帽子をかぶり、急いで外に出た。

 ちょうど、ごみ収集の人たちがパンパンになったゴミ袋を手慣れたようにいくつも回収しているところだった。あっという間に収集車が去っていく。自転車にまたがり、ゆっくりと漕ぎだす。月曜の午前中にしては、車の量がなかなか多かった。あ、大学生が仲良さげに歩いている。大学を通過して、近くのスーパーに向かう。やはり、なのか、これがいつも通りなのか、スーパーの駐車場にはたくさんの自転車と自動車が停まっていた。食料品、特に冷凍食品のコーナーを見ていく。でもよくよく考えたら、電気が止まったら温められないじゃないか。乾パンを手に取る。缶のほうが長持ちするのか...。一体何を買えばいいのか分からなくて、いつもの買い物と変わらないものになってしまった。

 帰ってきて、食品を冷蔵庫に押し込んで、今度は洗濯をする。ベランダに出て、空を仰ぐと雲の形が気になって、でも気にしないようにした。風が涼しく吹いている。洗濯機から衣類を取り出すと洗剤の香りがして、心地よくなった。さて、部屋に戻り、ご飯を食べる。おいしい。うん、ちゃんとおいしい。

 日常に揺さぶりをかけることが起こったとき、きっとこんなことは永くはないんだと感じる。町を車が愉快に進んでいく。大学のベンチで恋人同士がご飯を食べ、お喋りをしている。テレビでバラエティ番組が放送されている。蛇口をひねれば水が流れてきて、スイッチを押せば電気が点く。だからといって「日常を大事にしようね」とは結ぶことはないにしても、やっぱり怖い。いつも笑っている人が突然無表情になったような、身近にあったものが急に離れていってしまったような恐ろしさを感じる。

 きっと「その時」は確実に僕の後ろを付いてきているし、その手にはナイフが光っている。それは地震かもしれない。殺人?交通事故?心臓発作?何が起こっても、おかしくない。だけど死なない限り、日常はつづいていく。どれだけ大きなことが起こっても、そのあとにはちゃんと地味な毎日が待っている。きっとそのためには強いチカラが必要だし、一人じゃどうにもならないときもある。非常事態が起きた「その時」、社会や地域の本当の姿に光が当たるのだ。

魔鞭(Magic Whip)

 辛ければ冷たい水を飲めばいい。暑ければエアコンをつければいい。頭痛がするなら薬を飲め。手足が取れたらまたくっつけておけばいい。僕らの社会の進歩は本当に偉大で、何か異常が起きたらそれに対処する何かが必ずと言っていいほど存在している。このことによって日常を何不自由なく行える。例えば、残業が大変だからエナジードリンクを飲んで頑張ろう、とかね。あ、そういえばそれの飲みすぎで死んじゃった人がいるな...。否、我らの社会の素晴らしきかな。つらくても薬を飲めば大丈夫、だから一生懸命働きなさいね。ん?風邪だから休みたい?若い奴はそうやってすぐ休みたがる、俺が若い頃は高熱が出たって御国のために働いたんだ、休むんだったら辞めていいぞ、代わりは幾らでも居るからな。さ、これよろしく、俺は帰るぞ。

 ...「飴と鞭」という言葉がある。支配にとって何より欠かせないことだ。ジョージ・オーウェルの『1984年』の中にも、「二分間憎悪」というイベントがある。大勢が集められた空間で、スクリーンに敵国の支配者の顔が写される。みんなはそのスクリーンに向かって憎悪をぶつける。そして、愛国心を一層強く抱き、そしてそれを全員が共有する。支配とはこうやって完了する。ーさあて、僕らの国はどうだろうか。

 「桃太郎」というおとぎ話を知らない人は多くない。おばあさんが川で洗濯をしていると大きな桃が流れてきて...って、説明はしなくても大丈夫か。今日、大学の授業で読んだ本の中に、桃太郎のことが書いてあった。なぜ、桃太郎は国民的なお話になったのだろう。桃太郎は、鬼を倒しに行く。この「鬼」は、戦時中の日本人にとって何だったのだろう。さらに、日本の花と言えば「桜」だが、桜に対するイメージである「美しく、そしてさっと散っていく」が広まったのは、戦時中のことだ。なぜだろう。どうして、呆気なく散っていくことに美しさを見出し、それが日本中に広まったのか。そしてその美しさのせいで、どれだけの人が命を落としていったのか。

 人々の意識なんて簡単に操れる。仮想敵を作り、それをみんなで倒そうという結束力。国を愛し、国のために生きるという同調圧力。隣人が隣人を監視しあう。そしてときどき飴を与え、すべて忘れさせる。これが日常なのだと思わせる。いや、これは時代遅れの思想だろうか。日本は正常だ、マトモな国だ。地下鉄で殺人が起こったが、あいつは「オタク」だ、「オタク」は我々とは違う。気をつけろ。日本を傷つける者は国へ帰ればいい。そうか、これこそ日本。「俺らの頃はもっと大変だった、それくらいで音を上げるんじゃない」「貧乏?お前らの責任だろ」そうやってみんながドミノ倒しにしんどくなる社会。それでも政治家はお昼寝をしている。この国に生まれてよかったね。おめでとう。

シーツの海に漂う

 布団は、海だ。そう、僕は海にぷかぷかと浮きながら、何かの間違いでそのまま一日が過ぎていかないかと期待する。でもはっと時計に目をやると、もう時間だ。学校へ行く準備をしなければいけない。海を離れ、陸地へ。今日の天候は、曇りまたは晴れ。海が恋しい。腫れぼったい顔を手でさすり、クロレッツ(ミントタブ)を下で転がす。正直言って好んで舐めている訳じゃなく、単なる眠気だましだ。はあ、頑張れ僕、と静かに思う。

 疲れたからだが、部屋の扉を開ける。リュックサックを床に置くと、疲れが残響のように、じんわりと感じられる。ご飯が炊けると、おかずを作って簡単にそれを済ませる。お風呂を入れている間、歌をうたうのが好きで、隣の人に聞こえてるんだろうなあと思いながら気持ちよく歌う。体を洗い、お風呂に浸かる。うん、母体ってこんな感じなのかな。かなり心地いい。そしてお風呂から出て、今。午後八時過ぎ。はあ、頑張ったな僕、と静かに思う。

 もともと、あまり寝つきが良い方ではない。寝るのに最低30分はかかる。でも布団でうだうだしている時間も嫌いじゃなくて、眠いなあと思いながら枕を抱いて「その時」を待つのは不思議な感覚がする。布団という海で、溺れる瞬間を待っている。すごく地味な時間だけど、とろけるくらい甘い。きっと、南国で太陽を浴びながら海に浮かぶと気持ちがいいだろうな。鳥の鳴き声と波が打つ音しかしない。雲の流れを眺めながら、ただただ全身全霊で浮かんでいる。はあ、休暇が欲しい。セレブが南の島でバカンスをする理由がよく分かる。でも、今週はまだ一日残っている。僕はこれを書き終えると中国語の勉強をして、明日のテストに備える。ファイっ。

 ところで、僕は高校生のときまでよく詩を書いていた。恥ずかしながら。その中でふと「シーツの海」という言葉がぽんと出てきた。なぜか気に入って、今でも覚えている。シーツのしわというか、ぐちゃぐちゃになったところがなんだか海面を思わせるからだ。なめらかなシーツを見ると、ついつい手で触ったり頬に当ててみたくなる。それに、ふわふわの布団には飛びつきたくなるものだ。サーファーが波に飛び込むように、一気に気持ちよさへ上昇していく。あたたかい波に溺れて、夢を見る。つい先日、夢の中の僕は、寝ている両親に布団をかけてあげていた。布団の中で布団にまつわる夢を見たのは面白かった。そういえば二人は、もう何十年も一緒に布団で寝ている。将来僕もそんな感じになるのだろうか。海でぷかぷか浮いていたら、隣から大きないびきが聞こえてきたりとかね。

ユーモアしちゃうよ

 最近、ラーメンズのコントを見るのが楽しい。「不透明な会話」や「読書対決」、「無用途人間」がとても面白くて、何回も見返してそのたびに声を上げて笑う。個人的に、第5回公演「home」あたりの小林賢太郎さんの顔が好きだ。片桐さんはそんなに変化がなくて微笑んでしまう。今も、「百万円」というコントを見ながらこれを書いている。ラーメンズのコントは、言葉の面白さやだんだんと深みに入っていく笑いがたまらない。

 人は、笑うためにテレビを点けて番組を見る。お金を払って劇場へ向かってコントを見る。どこか、「笑う」ということを生活の中で求めているような気がする。会話をしていても、自然と笑いを取りたくなる(関西人特有のものかな)。そして、相手が笑ってくれた時には矢張りうれしい。つい昨日も友達と電話していて、二人でげらげら笑っていた。

 大学一年生のときに、ナチ治下のドイツのことを習った。ヒットラーがどのように権力を持ち始め、それをどう行使し始めたのか。けれども僕が一番興味深かったのは、その当時のドイツ市民のジョークだ。ジョーク。それはただの「駄洒落」ではなく、「政治的ジョーク」だ。例えば、ドイツの空軍元帥ゲーリング(この人は肥満体だったらしい)についてのジョークを一つ。「日本とゲーリングの違いはどこか」「日本は微笑みの国だが、ゲーリングは国の笑いものさ」。彼らの、支配者に対するジョークは結構辛らつで、身体の障害や思考力の欠陥を笑いの種にしていた。一番多いのはヒットラーについてのジョークで、音楽や宗教と関連したものや、他の独裁者と比較したものまで本当に多様にあったようだ。ドイツ市民はユーモアをもって支配に対抗しようとした。またユーモアは、自分たちの気分を解放するためでもあった。

 つい先日どこかで知ったのだが、イギリス、BBCのニュース番組がとある日の放送の最後にセックス・ピストルズの「God Save the Queen」を流した。それは一体なぜか。保守系の議員がBBCに対し、「EU離脱のしるしとしてイギリス国歌を流すべきだ」と要求したのだ。その答えが、国歌と同名のピストルズの曲を流す、というもの。僕は面白くて仕方なかった。

 ユーモアは、ある時には人間関係を滑らかなものにし、また違う時には権力に立ち向かう武器になる。たしか、笑うという行為自体も心理学的によいことだと『笑いの治癒力』という本で読んだことがある。そうか、友達と話すとほおっと落ち着いた気分になるのは、笑いの効果だったのか。たぶん来週末も友達と電話をするだろう。それまでちょっと、笑いの種を集めておかないと。