ステレオ

 ビートルズを聴いている。『With The Beatles』で、今は2曲目が流れている。右耳ではボーカルとコーラスの声が、左耳ではギターやドラム、ベースなどの音が聞こえる。イヤホンって、必ず片方がまずダメになるから、その瞬間からビートルズの音楽は聴けなくなる。片方だけでは、あまりにも不自然で、気持ちが悪い。右と左で聞こえる音が違うのをステレオ、どちらからも同じ音が流れるのをモノラルと言う。ちょうど今の朝ドラの主題歌(星野源さんが作って歌っています)にも、「すべてはモノラルの世界」という歌詞が出ている。

 「もう片方ないと困る」という思いは、生きていてもいろいろと感じる。例えば、あの世とこの世があるからこそ、やっと生きていることについてあれこれ考えることができるし、現実と虚構があるからこそ、汲み取れるものもたくさんあるのだろう。二つあるから、やっと世界が成り立っている。僕はたびたび「生きるのしんどいなあ、やめたいな」と思うことがあるけれども、もしも「死」というものがなかったらどういう目線で今を見つめていたんだろうと不思議になる。常に「死」に向かってみんな生きているけれど、誰かの死に触れるたびにどこかで自分の立ち位置を確かめる。中学生くらいの自分は割と本を読んでいたのだけど、それはきっと、周りの人とどうやって打ち解ければいいか分からなかったことが作用していたんじゃないか。「嘘」を拠り所にして、ずっと過ごしてきている。作者が誰に向けて嘘を作ってくれたのか分からないけれど、僕はそれを生餌にして、濁った水を泳いでいる。だからと言って全部が嘘になってしまっても、それはそれでつまらない。

 僕は人文系の学科で学んでいる。人文科の目指すところは、市民を作り出すことだ(と先生が言っていたからたぶんそうだ)。市民。どのような知見でもある程度理解できるように、最初の一年間は幅広く学ぶ。そうはいっても僕は理系の知識はほとんどないし、テストをすれば赤点を免れない。なぜそのようなことをするのか。僕は二つの理由があると思っている。一つは、専門分野以外の情報もそれなりに理解できるようにすること。それは、学びに差異をつけないことへも繋がっているだろう。もう一つは、専門の学びだってきっと、異分野の学びに刺激を受けることもあるということ。...うん。

 自分のいるところとは違う「あちら側」があって、そうやって世界が丸く収まっている。あちらの世界は、どんな音が流れているのだろう。イヤホンがいつか壊れてしまうまで、こちらは符号を紡ぐしかない。すごく、地味なメロディ。