カントリーボーイの憂鬱

 僕が生まれた町は本当に田舎で、本屋やCD屋さんに行くとかなり幻滅する。有名作でさえなかったり、どれも同じような感じだし、つまらない。だから修学旅行に行ったときにはツタヤに行っていろいろ見るのが楽しかった。二階まであるツタヤなんて初めて見たなあ。あと、田舎あるあるで、自分の地域だけ映画が公開されなかったり、ミュージシャンの全国ツアーで飛ばされたりする。

 田舎者としてのコンプレックスは一生ついてくるように思う。僕は好きでよく雑誌のPOPEYEを買って読んでいるけど、心のどこかで「お前はこんな世界とは関係ないだろう」と考えている。同じ大学の学生がスケートボードで通学している人がいて、ずいぶん目立っている。都会の整った街並みを滑ってゆくのなら格好がつくような気がするけど、田舎のがたがたした道を通るのは大変だろうなと思ったりする。「田舎性」みたいなものが無意識にまで染みついてしまって、「都会的」なものに対して違和感を感じてしまう。田舎で育った自分が都会的なおしゃれをしてもそれは「都会的」でしかないんだろう。

 前述した例えに本屋があるけれど、大きな本屋に行くと自然とワクワクしてしまう。「こんな本、誰が買うんだろう...笑」なんて本を見かけるとそれだけで嬉しくなる。なぜなら、その分だけ文化があるような気がするからだ。北海道に行ったとき、フィッツジェラルドの『若者はみな悲しい』を初めて見かけて、その熱のまま購入した。たくさん本がある店と全然ない店の違いは「普通」の違いだと思う。フィッツジェラルドの本があるのが当たり前の場所はごく普通にそれを立ち読みして面白そうか判断できる。でも田舎の本屋になると、もしかしたらフィッツジェラルドなんて名前すら知らないまま大人になるかもしれない。

 まあ映画や音楽やスマートフォンで観たり聴いたりできるけれど、言いたいところはそこではなくって、「文化に囲まれて育ったかそうでないかの違いは大きい」ということなんです。一日中本屋で立ち読みしまくったり、気になっていた映画を立て続けに観たりできる環境というのは、やはり大事だと思う。

 田舎に生まれたことの恩恵は、正直今はわからない。とにかく今はいろんなものを取り込むしかない。今ここでできること。興味のもった学問を少しずつでも理解すること。ここ最近、夏目漱石の『こころ』の登場人物Kの台詞を思い出す。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」。それから、高校の卒業式で担任の先生が僕にくれた「広い世界をあなたの感性で捉え、表現せよ」という言葉。今も強い力を持っている。その力でなんとかしがみついてゆく。