狼たち

 ヘルマン・ヘッセの小説に『荒野のおおかみ』がある。この本はほんとに難解で、僕自身数十ページで挫折してしまった。でもなぜか、「荒野の狼」というイメージが強く残ったままだ。どういうことかというと、現代の市民社会になじもうとする自分と、それを破壊しようとする‘‘オオカミ’’の自分、その乖離に苦悩するアウトサイダーのことで、今の時代も狼はたくさんいるような気がしているのだ。

 ちなみに、ニホンオオカミが絶滅したのは1905年とされていて、その原因はヒトと深く関係している。ニホンオオカミが食糧としていたシカなどの草食動物が減少し、徐々にヒトを襲うようになった。狂犬病に感染したオオカミに襲われる事件が増加し、駆除への動きが強まったとされる。ニホンオオカミが消えてから、彼らを天敵としていたイノシシやシカ、サルなどの野生動物が大繁殖し、農作物や環境への被害が深刻になっている。皮肉なもので、ヒトが消したオオカミによって、ヒトが困窮しているというわけです。最近では、またニホンオオカミを復元させようという案が出てきているらしいけれど、なんだか笑ってしまう。あまりにも都合がよすぎるというか、ね。

 何を言いたいかというと、「荒野の狼」もきっと、町や都市、地方を作り上げている歯車の一つなんだろうということです。時代に馴染めず、そんな自分に苦悩する人も、社会を動かしている動力になっているはずだ。もうすぐ平成が終わるにあたって、明治の終わりに自殺した、『こころ』の「先生」を思う。ここまではいかないまでも、時代の区切りとともにさっと姿を消したい思いは、どこかにあります。

 ときどき日本から出たいと強く考えます。「日本に生まれてよかった」と高らかに言う人はたくさんいるけれど、それによって見逃してきた色々があって、今の日本の見苦しさに繋がってきていると確信しています。僕は今、人文学部に所属していて、文学や諸文化について学んでいる。今の政府はこんな文系の学部をどんどん廃止させているわけだが、その理由は簡単だ、「金にならない」。医学部や薬学部は金になる、しかし文学なんて金にならない、というわけだ。僕はこんな「学びを金という尺度でしか測れない人間」にはなりたくはないけれど、言いたいことはわかる。将来みんな職に就かなければならない、そんなとき文学が何の役に立つんだ?この疑問を納得させるのは、かなりむつかしい。

 自分の中の狼を押し殺して生きる人がどれくらいいるのかわからない。荒野を生きるのにどれほどの苦悩を要するのかわからない。だけどなんとなく、荒野に片足を突っ込んでいるような気もしなくもない。荒野は、誰の中にもあるのかな?自分のなかの乖離を感じているのかな?