地下に生きる魔術

 雨がずいぶん長い間降り続いている。ときどき力強い風が吹いて、木立や枝葉が揺らされる。どれだけ土が雨粒を受け止め、飲み込んでも、やっぱりすぐにぐちゃぐちゃになってしまう。そして確かににじんでゆく。

 今日、麻原彰晃を含む、「オウム真理教」の元幹部らに死刑が執行された。1995年にはまだ生まれていない僕は、彼らが引き起こした事件を「歴史的事実」として知っているだけで、当時の空気感や絶望感はまったく何もわからない。だから、彼らに向けられる怒りも、僕には少し違って見える。どうしてあのような事件を引き起こしたのだろう。それには宗教的な背景も含まれているかもしれないし、そうだとしたら尚さら理解はむつかしくなるだろう。でも、「オウム真理教」という一つの受け皿が、一部の人の救いになっていたのは事実だ。実力や知識は豊富なのに社会から拒絶された人々にとっての、救済の場。まるで魔法みたいに思えただろう。今まで誰にも相手にされなかった自分が、今誰かの役に立てているように思えるのだから。そうやって、この宗教団体は大きくなっていった。(僕のこの考えは少なからず間違っているかもしれないが)地下鉄サリン事件は、多くの人を排除してきた社会へのカウンターだったんじゃないか。いや、どうしてそれが罪のない人々に向けられなければならないんだとも思う。そう、結果的に残ったものは罰しかないし。

 例えば、水を出しっぱなしの蛇口を指で塞ぐをしよう。それでも水は放出され、行き場を失った彼らは指の隙間から飛沫(しぶき)として外へ出ていく。オウムは無くなったが、その後継である組織(アレフ)はある。そんな風に、まだどこかに「魔術」を必要としている人たちがいる気がしている。自分みたいに地下鉄サリン事件以後に生まれ、育った人たちにとってはもっと「魔術」が美化された、幻想的なものに映るかもしれない。彼等には今日、死刑が執行されたが、果たして社会はどれくらいよりよくなったのだろう。二度とあのような事件が起こってはいけないが、今はもう起きないという確証はどこにもない。誰かの(僕の、またあなたの)孤独や弱みを握って、糸でつながれて、いつの間にかどんどん闇の方へ沈んで行ってしまうような危険性が、今もある。だって、「この人のどこにカリスマ性があるんだろう」という人が、実際多くの人を惹きつけたわけだから。いとも簡単に、僕らは操られる。「この人たちは自分を必要としている」という虚妄を抱いて、共生できているという夢を見て、危ない旅に出かけていく。

 彼らはどこから来て、そしてどこへ向かうのか。今もひっそりと、地下を流れる雨水のように静かに、「その時」は来るかもしれない。孤独や他者依存という普遍的な欲望を餌(えさ)にして、どんどんと成長しながら。