劇場

 シェイクスピアの『リア王』を、大学のゼミで読解している。例えば「今週は99ページから113ページ」という風に区切られて、その中から自分の担当箇所を決める。毎週4人がレジュメ(プリントみたいなもの)を作成し、ゼミの時間に発表する。どのようなレジュメを作るのかというと、まず担当した箇所の要約を、それから文章を抜粋して英語の文と自分で訳した文を書く。訳すのがなかなか面倒だけど、翻訳の本をちらちら見ながら自分の訳を見つけていく。

 そして、明日の授業でそれが終わる。面倒なことに、最後の最後を僕がすることになった。今日は、図書館に行って地味な作業をおこなった。Wordを開いてかたかたと打ち込んでいく。ここを抜き出そうと選んだ文は、リアが亡くなった後の登場人物たちの会話。英語の文を書き、そして日本語に訳そうとしたのだけど、そこで気が付いた。最後の台詞、英語のテキストと翻訳のもので言っている人物が違う。英語の方はALBANYが言っていて、僕が持っている新潮文庫版の『リア王』ではEDGARという人物が言っている。何回も見直して、一度は間違いかと思った。それで図書館にある『リア王』の本を何冊もチェックしてみたら、両方のパターンがあって戸惑ってしまった。自分が訳していてしっくりくるのはEDGARが言っている方だけど、教科書(英語のテキスト)がALBANYになっているから違和感が残る。そこでゼミの先生にメールをしてみた。少しして返事が届いた。〇〇くんが適切だと思うほうで構わないですよ、と言って下さって気持ちがとても楽になった。この最後の台詞は、どの人物が言うかで、劇の印象も変わってくる。それくらい大事な台詞だと思う。でもラストに二つのパターンがあるなんて、さすが歴史のある劇だ。

 終わったのは6時半だったけど、まだ外は明るくて、何人かの学生が夏のお祭りを目指して踊りを練習していた。風は涼しく、僕の欠伸はとても呑気なものだった。帰って餃子を作り、作り置きしていたごぼうとお揚げの煮物を頬張り、バスルームで歌をうたった。そして今。テレビは今週から始まるドラマが映っていて、ちょうどスタンドライトの電球が切れてしまった。眠たい目をこすりながら、まだ残っている課題のことを考えている。もう少し余裕をもって取り組んでおけばよかったかなあ。

 最後に、僕が訳したエドガーの台詞を。「この悲劇的な時代の重荷は、私たちが背負わなければならない、これからは、言うべきことではなく感じたことを話しましょう。もっとも年老いた方がもっとも耐え忍ばれたのだ。若い我々はこれほど多くを経験せず、これほど長生きしないだろう」。悲劇が終わったあとの、光を探し求める台詞。明日、僕はこれを声にして読む。