難しい暮らし

 なんでもかんでも楽な方がいいに越したことないのに、未だにすべてが難しい。光熱費とかをコンビニまで払いに行くのも億劫だし、僕が帰って来るのを静かに待ち構えている洗濯物の小さな山も蹴り飛ばしたい。なぜヒゲは毎朝伸びてくるのか。なぜキッチンはすぐびしゃびしゃになるのか。気づかないうちに生活のノルマが積み重なり、押しつぶされる。

 ベランダで洗濯をしながらふと思い出すことがあった。洗剤と一緒に入れる柔軟剤があんまり匂わないのが不思議で、このあいだ帰省したときに母の洗濯を見せてもらったのだ。母は柔軟剤を手に持ち、キャップにだくだくと注いでいった。手順は僕と変わらない。しかしそれは目安とされている量を軽く超え、倍ぐらいまで注がれ洗濯が始まった。そりゃそうだ。そんなに入れたらそら香る。だけどそれが妙に面白くて、洗濯するときにたまに思い出してしまうのだ。

 そういえば、僕がたまに行く喫茶店の人が携帯電話を捨てたらしい。理由はよく知らないけれど、いろいろ面倒になったのかなあと予想している。携帯電話は人を束縛する。自分というものが、ほんの小さな機械に集約されているみたいでときどき怖くなるのだ。おそらく喫茶店の人はそこから逃れたかった、解放されたかったのかな。だけど携帯電話を手離すということは、逆にそれに縛られることでもあって、同じように生きづらい暮らしが続いているように思う(メルカリを始めたいけどできなかったと言っていた)。それでも彼の大きな一歩は、とてもまぶしく見えた。

 生まれて死ぬまでの間、しつこく生活はつづく。楽しもうと意識すれば、それは愉快で心優しい友になる。だけど長い長い暮らしは途方もなくて、目が眩む。相手にせず迂回できるような余裕もあんまりないし、疲労の割に見返りは少ない。生活を面白がるにはある程度の強さがないと厳しいし、それなりに裕福であったとしても、生活はやはり難しい。何もしなくても自然と溜まる埃。ちょうど使おうと思っていた調味料は切れていて、シャンプーも詰め替えないといけない。そういう細々とした面倒ごとにうんざりして、めちゃくちゃ暗くて激しいものを心が求める。たまにそういうときがやって来る。