たわいもない

 元々人と関わるのに消極的な方だから、「〇〇のためにみんなで〇〇をしましょう」という文言を見ると萎縮してしまう。いや、そのきっかけで出会った人と仲がよくなることもあるかもしれないけれど、人と関わるのが義務みたいにされると肩に力が入って余計に話せなくなるのだ。それに、何かの目的のために集まるのって、順序が逆に感じて、疲れる。

 英語の‘‘company’’はまず「会社」という意味が出てくるけれど、その次に「仲間」という言葉がつづく。会社や企業の起源は、きっと近所付き合いや仲のいい人たちの集まりだっただろう。それがだんだん他人の濃度が高くなって、今に至っている。会社の風通しを良くするためにクラブ活動をしようとかバーベキューをしようとか画策する人たちもいるけれど、どうせ他人だからしょうがないよなあと思ったりする。どれだけ仲が良くなったって会社では役職が決まっていて派閥がある(たぶん)。

 高校三年生になってすぐの頃は、放課後の時間が好きだった。教室の人口も減って、遠くから吹奏楽の演奏もきこえてくる。なんとなく隅っこに仲のいい人と集まって、お菓子を食べ、言葉を交わす。それだって、「さあ集まろう」なんて呼びかけたんじゃなくて、風に運ばれるように自然に集まったのがよかった。僕含め、クラスに居場所のない人たちだったから、集まることに何かしら意味を求めていたんだろうと思う。そこには「〇〇のためにみんなで〇〇をしましょう」の堅苦しさが全然なかった。

 世間でも、家族でも、会社でもないどこか。ゆるやかに出会って、そこから何をしようかと考える(何をするかは重要じゃない)。スウェットパンツみたいに楽で、きつくない。だけどそういう場所や関係性って、すぐに見つかるようなものじゃない気がする。例えばツイッターの裏アカウントで繋がった仲はそれに該当するのかな。探そうと思えば見つけられるはず。コミュニケーションに消極的な自分にできるのか不安ではあるけど。

 僕の数少ない友達が、本当にたまに連絡をくれる。「何かあったの?」とこちらが訊くと別にないよと言う。「こういうことがあったから話したい」ではないのか。そのときの僕はおかしな人だなあと微笑んではいたけど、用もないのに電話してくれるのって結構ありがたい。ぎゅっと締まっていた頬がつい緩んでしまうような、他愛もない時間がまた来ればいいな。

たべたいものを作るのよ

 あらかじめ買うものを決めてスーパーに行ったことがあまりない。だいたいが行き当たりばったりで、スーパーをあちこち巡りながら頭の中で献立を考える。少しばかり空いてきたお腹に耳をすまし、何が食べたいか、その声を集めていく。昨夜は中華料理にしたし、脂っこいのもやめておこう、じゃあ久しぶりに炊き込みご飯を作ろうかな、それからほうれん草を買ってお浸しにでも。パズルのピースを一つずつ嵌めていくように、机の上に並べる料理を決める。

 一人暮らしを始めてから、ほとんど自炊を欠かしたことがないけれど、それはなぜなんだろうとずっと考えていた。ちょっとした義務になっていたからかな、とか、暇だからかな、とかいろいろ浮かんだけど、やっぱり「好きだから」というところに行き着いた。自分のために、自分が食べたいものを作っている時間が恋しいのだ。僕が住んでいるマンションはコンロが一つしかないからいろいろ面倒だけど、食材が自分の手によっておいしーい料理に変わるのはいい気持ちで、そのあいだ台所では演奏会が開かれる(と、今思いついた)。包丁が野菜を切るリズム、鍋が奏でるメロディ。

 料理を作るって、プラモデルを組み立てるのと似ている。箱を開けて、ニッパーでパーツを一つ一つ切り取って、それらを合わせたりくっつけたりして完成を目指す。それが不器用でみっともないのに仕上がっても、自分が作りたかったものを一人で作ったということだけでちょっと誇らしい。

 毎日毎日、自分に対して小さなご褒美を用意する。もちろんそれには、食べ終わったら皿を洗ったりそれらを布巾で拭いたりと、いろんな面倒ごとが含まれていて労力が必要なんだけど。...でも悲しい日には、スポンジでふわふわ皿を洗うことで、心にべっとりとついた油汚れがそっとほどけていく感じがする。そして澄んだ胸の窓からきれいな朝日が差し込んでくるような。

 うん、自分の中の食欲と睡眠欲ぐらい、自分で満たしていたいものだ。まあ食材を一から全部育てるのは難しいけれど、僕が買って、調理して、料理して食べる。そして誰にも睡眠を邪魔されたくないし、削られたくない。性欲に関してはよく分からんし、誰かに乱暴にベッドへ押し倒されるのも時には悪くないかもしれぬ。だけどあの二つの欲求だけは。一日三食という規則(どこのだれが決めたのか)に従って、おいしいものをお腹の迷宮へ。明日は何を食べようか。

好き

 人の本棚を見るのがどうしても好きだ。この間、とある事情で大学の先生の研究室にお邪魔したときも、壁にずらっと並ぶ沢山の本をつい見てしまった。なんというか、突然宝箱の中身を目の前で広げられたみたいな感じがある。そして僕は子供の目でそれらを一つ一つ点検するのだ。その先生の本棚で印象的だったのは、宮崎駿著『折り返し点』が二冊あったことで、そんなにいい本なのかしらと思った。

 月刊『暮しの手帖』の「あの人の本棚より」という連載には、いろんな人の本棚の写真と各々の愛読書に関するインタビューが載っている。僕は毎月この雑誌を心待ちにしていて、本棚のコーナーもお楽しみ要員の一人だ。例えば、いくつも並ぶ本の題名に知らないものが多くあれば、その人と僕はかなり遠い価値観にあるのだと感じるし、逆に非常に似通った趣向の本棚なら、その中の本、今までなんとなく読まずにいた本に興味が惹かれたりする。

 人と話してると、ときどきというか大体というか、それぞれの好みの話になる。「どんな趣味あるの」とか「どんな音楽聴いてるの」とか。僕はよく、この手の質問で困る。一つ一つ挙げていくのはちょっと強引な感じがしてしまうし、かと言って大雑把に「何でも」と答えられるほど詳しくもない。そういうときに人の本棚を眺めると、面倒くさく言葉で説明する必要がない。「この本好きです!」と言えばいい。「この作家って面白いですか?」でもいい。物質(マテリアル)の価値が相対的に低くなりつつあるこの頃だけど、本はきっと僕やあなたを写し出す。そしてあるときふと自分の本棚を見直せば、「僕ってこんな奴なんだ」、「自分は人からこう思われたいんだ」なんてことを考えられる。

 好きなことを語るのは楽しい。頭の中の花園を解放する感じで。たまーにはこうやってスピッツとか今敏監督とかイギリスとかチーズケーキとか、つまり僕の好きなものを一つずつ摘んで丁寧に写生してみたい。鼻で嗅いだり、指でふさふさしたりしながら。

難しい暮らし

 なんでもかんでも楽な方がいいに越したことないのに、未だにすべてが難しい。光熱費とかをコンビニまで払いに行くのも億劫だし、僕が帰って来るのを静かに待ち構えている洗濯物の小さな山も蹴り飛ばしたい。なぜヒゲは毎朝伸びてくるのか。なぜキッチンはすぐびしゃびしゃになるのか。気づかないうちに生活のノルマが積み重なり、押しつぶされる。

 ベランダで洗濯をしながらふと思い出すことがあった。洗剤と一緒に入れる柔軟剤があんまり匂わないのが不思議で、このあいだ帰省したときに母の洗濯を見せてもらったのだ。母は柔軟剤を手に持ち、キャップにだくだくと注いでいった。手順は僕と変わらない。しかしそれは目安とされている量を軽く超え、倍ぐらいまで注がれ洗濯が始まった。そりゃそうだ。そんなに入れたらそら香る。だけどそれが妙に面白くて、洗濯するときにたまに思い出してしまうのだ。

 そういえば、僕がたまに行く喫茶店の人が携帯電話を捨てたらしい。理由はよく知らないけれど、いろいろ面倒になったのかなあと予想している。携帯電話は人を束縛する。自分というものが、ほんの小さな機械に集約されているみたいでときどき怖くなるのだ。おそらく喫茶店の人はそこから逃れたかった、解放されたかったのかな。だけど携帯電話を手離すということは、逆にそれに縛られることでもあって、同じように生きづらい暮らしが続いているように思う(メルカリを始めたいけどできなかったと言っていた)。それでも彼の大きな一歩は、とてもまぶしく見えた。

 生まれて死ぬまでの間、しつこく生活はつづく。楽しもうと意識すれば、それは愉快で心優しい友になる。だけど長い長い暮らしは途方もなくて、目が眩む。相手にせず迂回できるような余裕もあんまりないし、疲労の割に見返りは少ない。生活を面白がるにはある程度の強さがないと厳しいし、それなりに裕福であったとしても、生活はやはり難しい。何もしなくても自然と溜まる埃。ちょうど使おうと思っていた調味料は切れていて、シャンプーも詰め替えないといけない。そういう細々とした面倒ごとにうんざりして、めちゃくちゃ暗くて激しいものを心が求める。たまにそういうときがやって来る。

やさしい暗闇から

 ときどき落ち込む。ときどき取り返しのつかない間違いをして何も考えられなくなる。ときどき、日の暮れた砂浜でただひたすら波が来るのを待ちつづける。晴れた朝はいろんな悩みをほぐしてくれると知っているけれど、いつまでも夜に執着して、波の代わりにやって来る、似たような声に耳をすます。

 何もできないまま、スタンドライトだけ灯る部屋でベッドに横になり、いろいろ動画を見る。最近はバーチャルユーチューバーの人たちがいいなと思う。初めは穿った捉え方をしていたけれど、ふとしたきっかけで知ってからは好んで見るようになった。各々のキャラクターにはそれぞれ特徴があって、どんどん好きな人が増えるのが嬉しい。彼らはバーチャルな存在で虚構でしかないのだけど、声や口ぐせ、ちょっとした仕草が愛着になる。まるで自分の近くにいるかのような親しさを抱く。

 くだらなくてみっともない彼らの笑いが、夜を癒してくれる。疲れた肌も使い古した頭もそっと撫でる。まだ砂浜の比喩が使えるとしたら、それは誰もいない波打ち際でやさしく波を照らす月の光だ。だけどその光の微力だけでなんとかやっていけそうな気がしてくる。彼らのやさしさに触れながらまぶたを閉じる。暗闇では思考がすいすいきれいにクロールするから、あんまり遠くに行かないように頭を休ませる。

 生きようと思うことはときどき難しい。それはおしゃれな服と似ていて、身につけていることに疲れてしまうのだ。その分、生きたくないという気持ちは純粋で誠実なものだと感じられる。暗くて静かな歌が耳に馴染むように、すっと心に落ち着くのだ。だからこそなかなか離れることができなくて、暗い気分をえんえんと味わってしまう。いけないことだけど仕方ない。ときどき落ち込む。ときどき取り返しのつかない間違いをして何も考えられなくなる。いろんなことに嘆き、自分を削っていく。どうしようもない凸凹。僕は今日も、うっすらとした闇の中で僕みたいな人のことを思う。あなたのその凹んだ部分で、やさしく誰かを掬えるかもしれないって考える。

わたしを離さないで

 ゼミで、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んでいる。来週の授業でもう物語は終わりを迎え、そろそろ総括になりそうだ。自分はSFを読むのが苦手だから、最初の方は読み進めるのが亀のようにスローだった。それでもところどころに散在している疑問点を追いかけるように紙を捲った。そして授業に出る。ゼミの他の学生の意見を聞いて、自分の読み方が揺らされて「なるほど」と思う瞬間。一人で読書するのがふつうになった今ではかなり貴重な気がしている。

 話は変わるけれど、2018年に『Detroit: Become Human』というゲームが発売された。舞台は西暦2038年のアメリカ、デトロイト。科学技術の進歩によってアンドロイドが大量生産され、重労働を担うようになり、その一方失業する人間が増加した。ゲームのプレイヤーはそのアンドロイドを操作して物語を進めていく。だから僕らは自然とアンドロイドの気持ちに寄り添って、理不尽な人間に対して怒りを覚えたりする。キャラクターがどうなるのか、ストーリーがどう展開するのかはプレイヤー次第だけど、その中に面白いなあと思う部分があった。アンドロイドが自分たちの自由と権利を求め、デモを起こすのだ。

 『わたしを離さないで』を読み終わっていろいろ考えている途中、このことが思い浮かんだ。くわしくは言わないけど、ここに出てくる登場人物と、読み手である僕らはほとんど異なる存在だ。だから線で区切って、違いをいろいろ見つけ出そうとする。人間である僕らと、人間ではない彼らのあいだで。

 僕らは「まっさかアンドロイドが感情を抱くはずがない」と思っている。だからどんなに過酷な環境に置いたってぜんぜん大丈夫だと考えている。わたしたちとは違うから。わたしたちは心を持っているから。これから先、どんどんアンドロイドが社会に投入されたらどういうことが起きるんだろうと予想してみる。もしかしたら、人文系の価値が上がるかもしれない。機械と人間とを比較し合って、いやわたしたちは家族を持ち自然を愛し利他的な存在ですよ、なんてことを言い出すかもしれない。彼らにはない、人間しか持ち合わせていないものばかり気に取られて、不安になるだろう。経済のことばかり考えるのなら、人間なんて要らない。いや、そもそも、人間が必要な理由って...?そういう面白い問答が繰り返されそうで、結構興味があるのだけど。

雲はゆっくり進むのよ

 静かな夜が怖い。ピンと張りつめた空気と、隣り合せの他人の生活。咳払いが無情に響いて、薄い壁を貫いていく。プライベートなんて言うものは見せかけで、容易く誰かが介入してくる。知らない人の笑い声、スポーツ番組の実況の声、闇を駆ける車の音。そういうのが眠りを阻害する。

 最近までまともに眠れていたのに、またイヤホンなしじゃ夜を越えられない。いやだ。待ち受けるすべてがいやだ。まったくおかしい話だと分かっているのにみんな真剣に耳を傾けているから、僕も聞いておかなくちゃいけなくなる。僕はすごい人間ですよ、なんて見栄を張るつもりなどない。僕は普通の、かなりだらしない人間だって白状したい。まだ大学生ってものもよく分かっていないんです。アピールする部分なんて一つもありません。それよりちょっと疲れたので、半年ぐらい休暇をくれませんか、どこか知らない町にでも行ってみたいんです。

 思い出すのは、高校の運動場だ。どこから運んできた土なのか知らないけど、水はけが悪くて、雨が降れば最悪だった。スニーカーだけじゃなく靴下まで泥にまみれて、親に怒られたりもした。だけど僕はどちらかと言えば、そういう水はけの悪い人間だ。知識や情報をすぐ吸い込めず、しばらくぬかるんでいる。隣の誰かがどんどんいろんなものを吸い込んでいる間に、僕はまだ咀嚼に戸惑っている。新品のタオルケットみたいに。

 薄暗い部屋の中で延々と考えてしまう。目が慣れてきたのか、壁や天井もうっすら見えるようになってきた。月の光が、カーテンの隙間を縫ってやって来た。頼りない、おぼろげな光。でも朝日よりも身近な光で、僕はやさしい気持ちを覚える。そしてイヤホンから流れるラジオ放送に心を預けながら、じっくり夢の中に落ちていくのだ。

 ネガティブな感情ほど簡単に文字にできる。たった四文字で僕の心を表現できる。でも僕はなるべく遠回りしたい。鈍感でも、鈍重でも、たしかに動いている。激しい風に巻き戻されたとしても。太陽を追いかけて手を振り、足を動かす。雨も降るだろう。しょっぱくて、苦しい雨が。でも動いている。自分を責めたてながら着実に。