目覚めると、まず身体のだるさに気がついた。息を吸い込むと、ひゅうという音がする。あ、これは喘息だなとすぐにわかった。小さい頃は小児喘息で、寝るときには体が暖かくなってしまうと咳が止まらなかった。父も気管支が弱く、昔は一日一箱吸っていた煙草もすぐにやめて、今は食べる量が増えている。もう小さい頃だけだと思っていたのに、喉のあたりに楽器でも入ったかのような感覚で、呼吸するのさえ煩わしくなってくる。映画なんかで煙草を吸っているシーンを観ると「かっこいいなあ」と思うけれど、吸うことは一度としてないんだろうな。

 シャワーを浴び、ご飯を食べたりしていると咳き込むのはやんだ。最近鼻の調子が悪かったけど、それが喉にも来たのか...。窓から空を眺めると、仄暗い雲が見えた。また雨かと憂鬱を感じながら、今日は4限目に補講があるから、仕方なく着替えて外へ出た。紫ピンクの傘をさし、信号を渡る。しばらくすると青い空が覗いてきて、水たまりがガラスのように空を写していた。

 補講には十人ぐらいしか出席していなかった。この講義を履修しているのは約三十人だから、かなり少ない。欠席しても別にカウントされないし、補講の内容はテストに出ないから休むのは当然なのだけど、なんとなく出たいなあと思わせる講義なのだ。人数が少ないからか、先生の話も脱線する。「僕が2015年のときに研究会で話した内容が思った以上に好評で、早く論文にしてくれと言われたんですけど...、子どもが生まれてからその計画が全部壊れましたね笑」。ああ、子どもが生まれると優先順位が全部子どもになるんだなあと考えながら、ふと父の姿が思い浮かんだ。

 父は僕とはかなり歳が離れていて、僕が生まれたときにはもうずいぶん先に行っていた。だからか、話をすることがあまりない。でもふとした瞬間に話す機会が生まれ、僕が一方的に話し、父がそれを聞く。自分の思ったこと、自分の好きなことを父に話すと、不思議な気持ちになる。なんというのだろう、一番ありきたりな言い方をすれば、「心が弾む」。軽く心が震え、落ち着かなくなってくる。声が上ずって、心臓が機関車のように激しく高鳴る。父に話すのは(なぜか)かなり勇気がいる。だからそのハードルを越えたときの落ち着きとも言えるかもしれない。今でも、自分の意見を声に出して誰かに伝えるときはやっぱり緊張する。自分の声を相手が受け取り、内面化していることへの恥ずかしさを感じる。だから文章で喋ること頼り、依存しているのだ。 

珈琲ミルク

 キリンジの「グッデイ・グッバイ」のミュージックビデオを見ていたら、喫茶店でサンドイッチが食べたくなった。舞台は東京練馬区にあるという喫茶店「プアハウス」。キリンジの二人がそこでサンドイッチを待っていると、失恋したばかりの男の子が入店する。渋いマスターがてきぱきとハムやチーズ、トマトにサニーレタスなんかを挟んでいく。そうして出来上がったサンドイッチを、鋭い目をした女性が二人の元に運ぶ。口に運ぶ二人。踊りだすマスターと女性。「グッデイ・グッバイ」を口ずさむ男の子。ラストは、晴れた青空の下で二人がギターを弾き、歌う。村上春樹の小説に出てきそうなお洒落な世界観で、いいなあと思った。「プアハウス」は実際に存在するらしくて、カレーが有名なのだそうだ。

 僕にとっての喫茶店は、ドトールだ。チェーン店だけど、僕の住む町には一店しかない。あなたの住む町にはどのくらいあるのだろうか。高校生のときにもよく行ったし、商店街の方へ出かけるときにはだいたい寄っている。細くて狭い入り口。高い確率で若い女性が「いらっしゃいませ」と言う。ミラノサンドA(生ハムが挟んであっておいしい)とアイスコーヒーを頼む。代金を払い、隣へ移動してそれを待つ。店員さんがハムを挟んだりナイフで切ったりしているのを眺めるのは楽しい。「ミラノサンドのAをご注文の方、お待たせいたしましたぁ」、僕はそれを持って二階へ上がる。隅っこの方に腰を下ろして、まずはウェットティッシュで手を拭く。それからぱくぱくと食べたり、コーヒーを飲む。

 ドトールによるのかもしれないけれど、僕が昔行っていたドトールは勉強ができた。二階の窓側の席で、受験生らしき人が静かに学習しているのを何回も見かけたことがある。僕と友達も「勉強しよう」とそこへ行くのだけど、どうも話の方が盛り上がって全然身にならなかった記憶がある。けれど喫茶店で本を読むのは楽しく、村上春樹の『雑文集』やカズオ・イシグロの『日の名残り』をぺらぺら捲りながら、コーヒーをごくりと飲んでいた(どちらも読了していないけど)。

 街を歩くのは好きだけど、疲れたときに落ち着ける場所はやっぱり喫茶店ぐらいだと思う。でも、コーヒーを飲み終わったらもう出ないといけないように感じる。外国人講師として大学に来ている女性が言っていたけど、昔の喫茶店はずっといれる場所だったようだ。いつまでもだべって、もう一杯おかわりなんかして、日が暮れる頃に帰る。そんな場所であって欲しいなあと、わがままに思う。

ひとりぼっちたち

 泥臭いアメリカのブルースみたいな気候だと思った。つい目を細めてしまう。気が付くと汗がつーっと伝っていく。ここまで暑いと、些細なことでいらいらしてしまう。なんでこのおばさんはのろのろと自転車で走ってるんだろう。なかなか信号が青に変わらないなあ、早く変わってくれぇ。マック・デマルコの爽やかなギターの音色も、カンカン照りの日差しを演出しているみたいに感じられる。

 今日は、読書レポートを書き終えた。ポール・オースターの『幽霊たち』について。この物語は、「孤独」という箱の中で進められる。登場人物であるブラックはこう語る。「書くという行為は孤独な作業だ。それは生活をおおいつくしてしまう」。オースターはインタビューのなかで、孤独は非常に複雑なものだと答えている。人として当たり前のように備わっているものでもあるし、逆に他人から教えられるものでもある、と。物語の主人公、探偵ブルーはホワイトという男から、ブラックを見張るように依頼された。ずっと、ずうっとブラックに関する報告書を書くブルーは、だんだんとすさまじい孤独感を覚え始める。世界が小さくなり、読者もその狭い空間の中に引き込まれていく。孤独な箱の中に。

 先日、宇多田ヒカルさんのドキュメンタリーを見た。彼女はいつものように独りでうんうんと作業していたし、そこに自負を抱いているように見えた。自分一人で作品を作りこんでいくこと。たった一人で真実を描いていくこと。それが当たり前で、そのやり方が一番しっくりくるのかもしれない。でも面白かったのは、ある曲に一人でずっと悩み続けて、ついに三年の年月を経たとき、レコーディングメンバーに相談したところすぐにそれが解決してしまった。宇多田さんもすごく驚いていたけど、案外そういうものなのかも知れないとも思った。自分がえんえんと悩んでいたことを、他者がするりと答えを出してくれる。

 先程の『幽霊たち』に話は戻るが、ここで描かれている「孤独」はアメリカと大きな関わりがあると思う。オースターの個人的な要因もあるだろうが、アメリカの歴史との関係が気になった。もともとイギリスなどの植民地だったが、それらから独立したアメリカ。自由とともに得たのは、おそらく孤独ではないか。そんな孤独な状態から始まり、今の大きさへと成長していった。アメリカという国が、一つの物語のように思える。

 ツイッターなどで絵や漫画を見る度に、「きっとこの人は一人で、時間をかけてこれを作り上げたんだなあ」と考える。何かを仕上げるために自分一人で、孤独に付き合っている姿は、なんだかうつくしい。あ、そうだ。夏の暑さに、どうかお気をつけて。大変なら仮病で休んだりすればいいんです。

劇場

 シェイクスピアの『リア王』を、大学のゼミで読解している。例えば「今週は99ページから113ページ」という風に区切られて、その中から自分の担当箇所を決める。毎週4人がレジュメ(プリントみたいなもの)を作成し、ゼミの時間に発表する。どのようなレジュメを作るのかというと、まず担当した箇所の要約を、それから文章を抜粋して英語の文と自分で訳した文を書く。訳すのがなかなか面倒だけど、翻訳の本をちらちら見ながら自分の訳を見つけていく。

 そして、明日の授業でそれが終わる。面倒なことに、最後の最後を僕がすることになった。今日は、図書館に行って地味な作業をおこなった。Wordを開いてかたかたと打ち込んでいく。ここを抜き出そうと選んだ文は、リアが亡くなった後の登場人物たちの会話。英語の文を書き、そして日本語に訳そうとしたのだけど、そこで気が付いた。最後の台詞、英語のテキストと翻訳のもので言っている人物が違う。英語の方はALBANYが言っていて、僕が持っている新潮文庫版の『リア王』ではEDGARという人物が言っている。何回も見直して、一度は間違いかと思った。それで図書館にある『リア王』の本を何冊もチェックしてみたら、両方のパターンがあって戸惑ってしまった。自分が訳していてしっくりくるのはEDGARが言っている方だけど、教科書(英語のテキスト)がALBANYになっているから違和感が残る。そこでゼミの先生にメールをしてみた。少しして返事が届いた。〇〇くんが適切だと思うほうで構わないですよ、と言って下さって気持ちがとても楽になった。この最後の台詞は、どの人物が言うかで、劇の印象も変わってくる。それくらい大事な台詞だと思う。でもラストに二つのパターンがあるなんて、さすが歴史のある劇だ。

 終わったのは6時半だったけど、まだ外は明るくて、何人かの学生が夏のお祭りを目指して踊りを練習していた。風は涼しく、僕の欠伸はとても呑気なものだった。帰って餃子を作り、作り置きしていたごぼうとお揚げの煮物を頬張り、バスルームで歌をうたった。そして今。テレビは今週から始まるドラマが映っていて、ちょうどスタンドライトの電球が切れてしまった。眠たい目をこすりながら、まだ残っている課題のことを考えている。もう少し余裕をもって取り組んでおけばよかったかなあ。

 最後に、僕が訳したエドガーの台詞を。「この悲劇的な時代の重荷は、私たちが背負わなければならない、これからは、言うべきことではなく感じたことを話しましょう。もっとも年老いた方がもっとも耐え忍ばれたのだ。若い我々はこれほど多くを経験せず、これほど長生きしないだろう」。悲劇が終わったあとの、光を探し求める台詞。明日、僕はこれを声にして読む。

地下に生きる魔術

 雨がずいぶん長い間降り続いている。ときどき力強い風が吹いて、木立や枝葉が揺らされる。どれだけ土が雨粒を受け止め、飲み込んでも、やっぱりすぐにぐちゃぐちゃになってしまう。そして確かににじんでゆく。

 今日、麻原彰晃を含む、「オウム真理教」の元幹部らに死刑が執行された。1995年にはまだ生まれていない僕は、彼らが引き起こした事件を「歴史的事実」として知っているだけで、当時の空気感や絶望感はまったく何もわからない。だから、彼らに向けられる怒りも、僕には少し違って見える。どうしてあのような事件を引き起こしたのだろう。それには宗教的な背景も含まれているかもしれないし、そうだとしたら尚さら理解はむつかしくなるだろう。でも、「オウム真理教」という一つの受け皿が、一部の人の救いになっていたのは事実だ。実力や知識は豊富なのに社会から拒絶された人々にとっての、救済の場。まるで魔法みたいに思えただろう。今まで誰にも相手にされなかった自分が、今誰かの役に立てているように思えるのだから。そうやって、この宗教団体は大きくなっていった。(僕のこの考えは少なからず間違っているかもしれないが)地下鉄サリン事件は、多くの人を排除してきた社会へのカウンターだったんじゃないか。いや、どうしてそれが罪のない人々に向けられなければならないんだとも思う。そう、結果的に残ったものは罰しかないし。

 例えば、水を出しっぱなしの蛇口を指で塞ぐをしよう。それでも水は放出され、行き場を失った彼らは指の隙間から飛沫(しぶき)として外へ出ていく。オウムは無くなったが、その後継である組織(アレフ)はある。そんな風に、まだどこかに「魔術」を必要としている人たちがいる気がしている。自分みたいに地下鉄サリン事件以後に生まれ、育った人たちにとってはもっと「魔術」が美化された、幻想的なものに映るかもしれない。彼等には今日、死刑が執行されたが、果たして社会はどれくらいよりよくなったのだろう。二度とあのような事件が起こってはいけないが、今はもう起きないという確証はどこにもない。誰かの(僕の、またあなたの)孤独や弱みを握って、糸でつながれて、いつの間にかどんどん闇の方へ沈んで行ってしまうような危険性が、今もある。だって、「この人のどこにカリスマ性があるんだろう」という人が、実際多くの人を惹きつけたわけだから。いとも簡単に、僕らは操られる。「この人たちは自分を必要としている」という虚妄を抱いて、共生できているという夢を見て、危ない旅に出かけていく。

 彼らはどこから来て、そしてどこへ向かうのか。今もひっそりと、地下を流れる雨水のように静かに、「その時」は来るかもしれない。孤独や他者依存という普遍的な欲望を餌(えさ)にして、どんどんと成長しながら。

三日月

 ‘‘want’’という英単語の元々の意味は「欠けている」だったらしい。そして、「欠けているから欲しくなる」という流れから、「欲しい」という意味が生まれ、そちらが今も定着している。うん、足りないものは欲しくなるのだ。睡眠も、食事も、休養も。そして、満ち満ちている赤の他人を見ると、なお一層その欲望は高まる。それが自分と同じ年齢で、友人関係であれば...。

 今日の授業で、武者小路実篤の『友情』について学んだ。大まかに言ってしまえば男女の三角関係のお話。野島は友人仲田の妹、杉子に一目惚れするが、杉子は野島の親友である大宮のことを好きになる。大宮は運動神経も豊かで、紡ぐ作品も世間に評価されている。野島が杉子に惚れていると知っている大宮は、心の片隅で彼女のことを想う。そして彼は突然ヨーロッパへ行くと言い出す。野島は恋敵が居なくなったことへの安心と、切なさを感じる。大宮が日本を発って一年後、野島は杉子に結婚の申し込みをするが、断られる。悲しみに暮れる彼のもとに、パリにいる大宮から手紙が届く。そこには「自分は君に謝らなければならない」という言葉と、某同人誌に書いた小説を読んでくれというメッセージがあった。その小説の内容は、大宮が杉子へ抱いていた恋心と野島との友情に苦悩する心情を吐露するものだった。野島はさらに悲しみ、打ちひしがれるが、大宮に「仕事の上で決闘しよう」と手紙を書き、力強く成長することを決意する。

 僕はずいぶん、野島というキャラクターに同情した。杉子に尊敬されたいと思いながら、自分の満たされない自尊心を埋めてほしいと願う。文武両道で容姿も端麗な大宮に対して嫉妬する心。風邪を引いて淋しくなって母の元に帰りたくなるシーン。自分には何もないのにも関わらず「ある」と誰かに言ってほしい虚しさ。そして大宮が好きな人と結ばれてしまって、悲しみの底に突き落とされてしまう。僕がもし野島だったとしたら、そこでずっと生きていると思うけれど、彼はそこから浮かび上がって前に進むと決める。自分には何もないと感じ取ってしまうと、虚構の何かを作り出してしまうときがある。野島もきっとそんな人間だった。その「虚構の何か」を誰かに認められようとして、無駄に汗を流す。野島の強さは、そこから抜け出して本当の何かへと歩みだせたことじゃないかな。

 三日月が美しいのは、これから満月へと変化していくからだと思う。どんどんと満ちていく過程にある美しさ。野島を見ているとそんなことを想う。僕もそんな風に進化していけるのだろうか。偽物の光に騙されないように...。

浪漫飛行

 突然ここでラオスあたりに旅をしに行ったら何が変わるのだろう。多分そんなに変わることはない。授業の単位が取れなくって一学期が全部パアになってしまうけれど、せいぜいその程度だ。唐突にすべてを忘れてぴゅーっと消えてしまいたい時がある。『ドラゴンボール』で孫悟空が「んじゃっ」と言って瞬間移動するように、ある朝急に思い立ってバスでどこかへ出かけてみたい。そうなったとき、「あ、やっぱり学校がいいわ」と思うのだろうか。さあね。

 今はいろんな事情があってどこかへ行くことはできない。そういえば、修学旅行以外でどこかへ行ったことがあまりない。でも知らないところを歩くのは好きで、旅行記を読んでいるとわくわくしてくる。さくらももこさんの『もものかんづめ』から『たいのおかしら』のエッセイはとてもお気に入りで、人に貸してそのまま返ってきていないぐらい面白いのでお勧めだ。『さるのこしかけ』は、ももこさんがインドに行ったりポールマッカートニーのライブに行ったり...という内容で、ももこさんの行動力すごいなあと思いつつ、相変わらずちゃんと笑いどころを作られていて、ほんとにすごいなあという言葉しか見つからない。

 それにしても、休むということは楽しい。あまりしないけど、ときどき授業をサボるときがあってちょっとしたスリルがありつつも「よし、やってやったぞ」みたいな達成感もある。この間は、金曜四限の授業の時間に路面電車に乗って服を買いに行った。あれこれ服を見たり鏡で「似合ってるかなあ」と確認している間、他の人たちが黙々と書き込んだり眠気を我慢して先生の話を聴いているのだと考えてたら少し痛快だった。いや、これが大人の社会で、僕がサラリーマンだったら「痛快だなあ」なんて言えない。それなりの罰則と周りの冷たい風当たりが待っているに違いない。でも、みんなが「休みたい...」と思いながらきちんと朝起きて夜遅くまで勤めているのはどこか奇妙だなあ。たぶん、休みたい休みたいと思っている人ほど、いざ休暇ができると部屋で一日中過ごしたりするのだ(多分)。

 話は変わるけれど、僕はときどき「人との関係を唐突に全部無しにしたくなる衝動」に襲われる。それは淋しいときだ。淋しいのに、もっと自分を孤独に陥れたくなる。きっと一人旅は孤独なものだろう。能動的に一人になるのだから。ちょっとした裏切りに近いものだ。人と打ち解けるのが苦手な性分で、人との関わり方もあんまりわからない。たぶんずっと「浮いて」いて、アンナチュラルだと思う。だからそういううざったいものを全部一旦ナシにしてしまいたいのかもしれない。あやとりをしている途中で糸をぐちゃぐちゃに丸めて捨ててしまう子供のようだな。

 旅に出たい。‘‘中途半端に自分のことを知っている世界’’じゃないところに。